2009-12-07
本番が終了
へんな時間に間食をしたせいか,緊張が解けて気が抜けたせいか
まれに見るくらいブリリアントな下痢をした。
打ち上げ会場で下痢してたし,後半ほとんど先輩の皆さんの話が聞けなかった。
でも何より辛かったのがトイレを占拠する事で
たくさんの酔っ払いに切れられた。
なんで飲み屋のトイレなのに大便が一個しかないんだよ!
もう来る人来る人みんな殺気立ってて,あの「カシャン」てやる鍵のヤツが赤ければ中に人がいることが分るのに皆ノックしてきたし。
いや,分るでしょあの「カシャン」てやるやつが赤いんだから。
でもトイレの中で寝ちゃう人もいるからかなあ。
まあかく言う僕もあの「カシャン」てやるヤツが赤くてもノックしましたが。
まだちょっと調子が悪い。早く治らないかな。
この間はダンサーとして初舞台だったけど,
感想とかは何かまとまらないから
なんか面倒になったのでここでやめようっと。
2009-11-11
告知と未来のことあれこれ
僕の所属する(準メンバー)変なダンスカンパニー「輝く未来」の公演があります。
宗教団体ではありません。
輝く未来『冬のてはじめ』公演情報
メンバー3人の振付による小作品と、伊藤キムを含めた即興セッション!
日時:(開場は開演の20分前)
12月4日(金)19:30
12月5日(土)15:00/19:30
12月6日(日)15:00
会場:森下スタジオ Bスタジオ
前売り:1000円 当日:1200円
「てはじめ」というのは本公演前のお試し公演のことですね。振り付けは全てメンバーがやります。
ダンサーとしてのキャリアは完全ルーキーな僕はわくわく。
今回はダンスカンパニーだけどあんまり踊り倒す感じではなさそうな気配がする。
言葉を使ったり他人との関係性を身体を通して見つめていく小作品が多そう。
せっかくだから踊りたかった。
何しろ他のメンバーと違って僕にはジャズもバレエも基礎も何もない。
本番がやっぱ一番上達するからやってみたかった。
やっぱり逃げられない状況におかれないと人間何もやらねえよなって最近すごく思う。
あ,僕だけか。
だからいつまで経ってもバイトしないでダラダラ過ごしてるんだろう。
一人暮らしでもしてしまおうかとマジで悩んでいる。
とりあえず自分を後に引かせないような状況に追い込んで,そこから何か考えるタイプだ。
事前の予定とか自主性とかが全然無い。
でも結局自分の中に残っているのは
そのときそのとき切実に必要になって手に入れたものだけだと思う。
でもいい加減働かないと。
アリかキリギリスかって言ったら完全キリギリスタイプだ。
まあ良いや。脱線した。
とにかく今はてはじめの稽古がようやく始まった。しかも今日から。
「おいおい!一ヶ月きってんのに今から初めて大丈夫なのか!?」
と芝居畑の僕は思ったが,ダンスでは普通らしい。いや,わかんないけど。未来だけかも。
あんまり芝居と違って稽古日数も時間も少ないし(身体壊すから)
だから先輩も2個も3個も掛け持ちできるのだ。
メンバーはまだ皆若いし,やっぱりずっとやってきたような人とは違うから
実力はないし,振付や進め方も未熟なところがある。
でも,それでもいいんじゃないだろうか。
「キムさんの下に集まったのにキムさんが振付しないんじゃあまり居る意味無い」
って言っているメンバーもいるけど,こういう機会が与えられるのはいいんじゃないだろうか。
まあ本公演はどうなるか分らないけど,
つまんなかったら多分世間の批判はキムさんにいくし,
小屋代衣装代もろもろただで公演できるチャンスがあると思えば
それなりに楽しめる気がする。
2009-10-22
踊っていて,読んでいて
芥川龍之介以来の僕の大ブーム作家になった。
なんだか選評を見ていると山田詠美だけはダメって人がいるみたいなんだけど
うーん。そんなにくせが強いとは思わないからちょっと不思議。
僕は音楽でも本でも気がつけば男性のものがずっと好きだった。
「源氏物語」以来じゃないのかな。
変な嗜好とかじゃなく,本当に気がつけばそうなっていたのである。
ふーん,女の人ってこう考えてるんだって,
観たことない世界を覗いたような感覚が面白い。
いや,山田詠美さんが書いてることが絶対女性が考えてること全般じゃないんだろうけど
何でだろう,なんかひきつけられるものがある。
「こうだったら良いなー」なのかもしれない。
いや,女性男性うんぬんよりももっと単純なところなのかもしれない。
もう快楽があるんだからしょうがないから言い訳するのやめようよって言うか,
いちいち人のせいにしてないで自分が欲しいもんとか嗅いでる臭いとか目に映ってるものを
抱きしめて慈しんでるほうが楽しいんじゃないかみたいなそんなことを言ってる気がしてるのだ。
考えることでどうにかこうにか生きていた人は頭でっかちにどんどんなっていく。
で,考えれば考えるほど「考えても無駄なんじゃないか」って言うのが頭をよぎって,
でももう何も考えないで生活してた頃の純粋さには戻れないと気付いてしまう。
赤ん坊の時のように四肢を全て全く違う方向に動かせる身体をもう失っている。
花や茂みを見てただ手を伸ばして嬌声を上げる回路を失っている。
何かを目指して離れたスタート地点が実は目的地だったことに気付いて
戻り方をまた一から探しているのかもしれない。
でもそれは前進なので。
そんなことを思うのも,ワークショップを輝く未来でやっていて
初心者の方が経験者より良い動きをすることが多い。
それは良い動きと言うか,まったくダンス経験者には予想もつかないことをするということだ。
色々な不純物が混ざっていない,だから作為も無い,それは人を惹きつける第一条件だ。
でも,やっぱり鍛えて鍛えて鍛えぬいたプロダンサーが生み出す「予想外」は
初心者のそれよりもはるかに素晴らしい。
美しさには二種類あって(誰が言ってたか忘れた)
誰にも何にも犯されること無く純粋であり続けた末の美しさと,
傷ついて壊されて汚れて磨きぬいた先にある美しさの二つ。
もう帰り道を忘れてしまったやつは潔く前を向いて
汚れきるほうを選んだほうが良いと最近思う。
2009-10-14
最近
また今週も土曜日から月曜日まで毎日ある。
後輩にも宣伝したのだがどうやらカンパニー名があれなので宗教団体だと思われたらしく来てくれない。
「ち,違うよ,眼帯つけたまつ毛の長いおっさんがぐにゃぐにゃ踊ってるけど大丈夫だよ!」
と言ったけど逆効果だったらしい。
まあ良く考えればかなりいかがわしい名前だと思う。
あるワークショップの帰り,森下(スタジオがあるところ)の焼き鳥屋で先輩と呑むことになった。
「一杯だけ」と言いながら気がつけば3時間半くらい居てしまった。
かなり色んな話をしたけど,何か印象的だったのが周りに居る人の話だった。
その先輩は,付き合う人はかに座が多くて支えてくれる人はうお座の人が多いらしい。
「え,圭(と呼ばれている)はどんな人が多いの?」
と聞かれて,僕はちょっと悩んだ挙句
「うーん,自意識が強くて,危機感のある人が多いですよー」
と答えた。
先輩はまさかの方向からの回答に少し戸惑っていた。
大体自分の誕生日でさえ定かではない僕が人の星座なんか覚えているはずがないじゃーん。
僕は獅子座で寅年の火星人。鉄壁の自分至上主義者だ。
だからこそ暴走寸前の自意識を常に抱えている。
で,周りにもそういう人が多い。
でもここで重要なのは同時にそれが信じられないくらい恥ずかしいことと自覚しているから
とても危機感があるということ。
どうしようもないくらいの自意識を何とかしてコントロールしようとしている人は
なんとなく信用できる。
だから電車の中で化粧をしたりする人は信じられない。
僕はどんな人に対してでも自分が「化ける」瞬間を見られるのが死ぬほど恥ずかしい。
よく小さい小屋なんかでパフォーマンスを見ると
演者が会場整理をしてそのまま本番に移行するなんていうのもあるが,
もう気が狂いそうになるくらい恥ずかしい。
だから公演が終わった後のお客さんとの面会も死ぬほど嫌い。
衣装つけたまんまでなんか絶対出来ないよ。
もっといっちゃえば自分が違うグループに居る時に他のグループに見られんのも恥ずかしい。
来ないでー,どっち使用にしていいか分んなくなるー
まあ化けた後に見られるのは一向に構わないんだけど。
そんぐらい恥ずかしい自分をどうしたらよいのか。
要はかっこつけマンなんだろう。
かっこつけマンであるというのは時にとてつもないパワーをくれたが,基本は足枷な気がする。
そうじゃなきゃものを書くなんてできないだろう。
そうやってんのは実は恥の上塗りになっちゃったりするんだが。
できるなら恥ずかしくない恥のさらし方をしていきたいもんだ。
2009-10-08
怒りのブログ!!
どうやらバリでは旧正月の元旦には
島中のありとあらゆる店が閉まり,電気が止まり,誰も外に出ない日があるという。
「地球がおやすみの日」なんだそうだ。
素敵な考え方だ。
当然日本の観光会社はそこを避けてツアーを組むために,
島にはほとんど観光客がいなくなるし,しかも旅費が安くなるんだって。
でもその一日前には,
夜中の間ずっと悪魔のお面や山車がガムランと椰子酒の嵐の中で町を練り歩くそうだ。
僕のサークル時代の人にとっては柳原=ガムランと言っても過言ではないので
バリにしよう。(ところでバリって何語?)
話は変わるけど,
昨日はコクーンのバイトの同僚の人達が(元同僚か)何故か僕のお別れパーティーを催してくれた。
渋谷の土間土間である。
で,まあ大雨の中ただ酒を飲みに行ったのだけれど。
・・・。
いや,まあ僕なんかの為にこういう会を開いてくれたことは嬉しいです。
すごく感謝しています。
でも,ちょっと,
楽しい飲み会にしようと努力しようよ!
トークの基本を押さえろよ!話題は拾う!ボケは拾う!一発芸を振るタイミングは考える!
いじられキャラの男子をただ頭ごなしに「つまんないんだけどー」という女子。
もうちょっと話聞けよ!「落ちがない」という話題を最後まで聞かないで話を切ったら
本気でただつまらないじゃないか。
「あ,これオチないな」といち早く察知していた俺の切り込みワードが空気の読まない否定で永遠にお蔵入りである。
つまんないんじゃないんだよ,お前が話をつまらなくしてるんだよ!
周りの受け答えや姿勢次第でいかようにもつまらない話は面白くなる。
そうするくらいなら最後まで不必要に食いついた末に掌を返したほうがいいじゃないか。
そのまま全員で掘り下げ続けておたからが発見できない挙句に振り向くとそいつの財布が焼酎ロックの中で泡だっている。
ってくらいの愛が欲しいもんである。
それとシフトリーダー!
いきなり「俺キャバクラ嫌いなんだけど」ってなんだそれ!
好きなものの話しなら良いけどなぜネガティブ方面の話題を,それも急に喋りだす。
その後,「やっぱり話聞いてくれるなら一緒に山登ったりさ,星を見てもらうとかの方が価値があると思うんだ」「大して可愛くもないケバケバした女とお酒飲むことに何でお金払えるのか,世のおじさんたちの意味が分らない」「ホストクラブとかも入れ込む心理が分らない」「やっぱりおもてなしって言うのは自分の為にいかに時間を掛けてくれるかがさ・・」云々。
何キャラだよ!いきなり優良男子宣言か!
たぶんテレビとかで見たステレオタイプの映像を見て「こいつらよりは・・」って根拠の無い優越感に浸ってたんだろうな。
それでいざこういう場になったら自分はこんな価値観を持ってるんですよって
こいつらとは違うんですよってアピールしたかったんだろうな。そういう言葉が溢れちゃったんだな。
しかもこの人は日芸の脚本科を出てて,映画とかたくさん知ってる人って言うバックボーンがあって・・
あああぁあぁ
恥ずかしい・・。とても恥ずかしい・・。
まあその自意識云々の話はともかくとして,話題選べよ!
限られた時間の中でお金払ってるんだからさー。
まあ,久しぶりに「きーっ」って話でした。
この間ダンスの飲み会で同席したおっさんたちの話はそれは楽しかった。
ためになるはなしもあったし,こちらも楽しいし,
何より自分たちがどうやったらお酒が楽しく呑めるか知ってる感じだった。
みんなのためは自分のためになる。特に飲み会の席では。
シリアスな話をシリアスには語らずに,でも受け手にはちゃんとシリアスに伝わるって言う
高等テクニック。
飲み会は地が出ちゃうよ。
僕も気をつけて,有意義な飲み会にしようっと。
2009-10-02
旅行に
とこの間生まれて初めてふと思ったので来年あたり行ってくるかもしれない。
いや,でも暇ねえな。
いや,別に毎日あるわけじゃないんだけど定期的にカンパニー稽古あるから変に暇が無い。
でもどこ行こっかなー。やっぱり南国だろう。
そして海がないとだめだ。
よし,決めた。
ハワイだ。
今あえてハワイだ。
ハワイって
南国かな?
まあ良いや。来年か,
「来年だからねっ?!」「え,うん。わかった。・・予定空けとくわ」(自問自答)
一人で行きたい。あえてハワイに一人で行きたい。
あ,でも友達が何人かいるのは良いかも。それはそれで楽しそうだし。
あ,そういえば結構前のブログで僕には友達が居ないと書いたけど,
久しぶりにこの間大学時代の人たちと出会ったら
「あ,友達ってこういう感じか」
とこの歳になって腑に落ちたので簡単に前言撤回する。
でもまあ居ても良いけど俗に言う観光名所めぐりなんか絶対嫌だからね!
日本人がまったくいないような島でぼーっとしたり米兵に追いかけられたり
日本語通じない隠れた良い感じのバーのおっさんと友達になったりしてみたい。
そういうアクティブな旅行がしてみたい。
受身の観光なんか真っ平ごめんだ。
「それじゃつまんなーい」と言われようが関係ねえ!
そうするくらいなら俺は単独行動でホテルでダラダラしてるぜ!
まあ誰もついて来るなんていってないから。
ていうかハワイってどうなっているのか全然知らないし。
その国にはその国のルールとか文化があるだろうし。
そういうのは失礼にならないように,ていうか自分の安全の為に勉強してから行かないと。(あ,面倒くさくなってきた)
まあその前にコクーンやめたんだからお金稼ぐ方法探せよって感じだけど。
でもそれを考えたくないからこういうこと考えているんだけど。
まあ来年か。
2009-09-24
楽しいこと
今日は休日なのに朝割りと早い時間に起きた。プランは万端だった。
でも,あんまり上手くいかなかった。
意気揚々と電車で読む本を選んでいたら今僕がはまりにはまっている山田詠美が無くてテンション下がって
仕方なく「カミュ全集Ⅱ」(新潮社)を読んでいたら面白くって明大前を通り越してテンション下がって
「ふ,こんな不条理な世界で衣服が一体なんの役に立つんだ」
なんてカミュの世界観に浸っているのに下北沢に立つ自分に呆然としてテンション下がって
そんなこんなで下北沢で服を探していた。
気がついたら白と黒ばっか。
そして時間は午後三時を回っていた。
実は下北沢から帰って図書館に寄ってカラオケにでも行くつもりだった。
「荷物おもーい」
と思ったしお腹すいたしでもそとで食べるのが嫌だから帰ってきた。
なんであんな時間かかったんだろう,優柔不断だからか。
あ,でも優柔不断といえば決断には二つ種類があって
「どちらがより自分にとってプラスか」というのと「どちらが自分にとってマイナスが少ないか」
って言うのの二つあると思う。
で,僕は前者の「プラス」の決断が恐ろしく遅い。
例えば目の前に大好物が二つ並べられて「どちらか一方だけ食べて良い」と言われたら
たぶん1~2時間は悩んでいる。
逆に嫌いな食べ物を並べられたら多分3秒くらいで食べる。
「どっちがおいしいだろう・・・」(食べ物)とか「どっちがためになるだろう・・・」(舞台)
とか「どっちが面白いだろう・・・」(映画もしくはAV)とか
快楽に対して純粋なんだなあ。僕は。(そういえば僕はAVコーナーで一時間半悩んだことがある。ふと集中から開放されて時計を見て絶望した。まあ借りたけど)
自分にとってストレスフルな,嫌な事柄はもう即決してしまう。
コクーンのバイトをやめるときも,「やめよう」と思ってからすぐにもう言った。
まあ九月まではやるんだけど。
すごく急に言ったのでびっくりしていた。
それに関してあまり後悔したことはない。
(プラスの決断に関してはすごく良くある。となりの芝生は青い,という理屈のせいだと思うけど)
転ばぬ先の杖よりも転んだ後の起き上がり方が重要ですよ。
2009-09-06
いかしてる女の子を見た
現在ではあんまり珍重されない価値観なのかもしれないし。
どうも80年代(もっと昔か?)のにおいがする。
でも僕は京王井の頭線でそのワードが一番しっくりくる6~7歳の女の子を見た。
最初見たとき,
なんて自分と言う存在をしっかりと持っているような目をした子だろうと思った。
まわりの大人たちと比べても
背筋はしっかりと伸びているし,視線は真っ直ぐに観るべきものを見ていた。
ちょっと説明するのは難しい。
ただ,存在がぼんやりとしていなかったのだ。
輪郭がはっきり見えるというか。
彼女は親子連れで,お母さんは見るからに優しそうな,
「どんな人間でも私は平等に扱いますよ」と言っているような顔をしていた。
地域清掃のボランティアの帰りのようだった。
お母さんは,電車で目の前のつり革に立ったご老人二人組みに席を譲った。
そして娘にも自分と同じようにするように勧めた。
誰が見ても微笑ましい光景だった。微笑ましいというよりも,「みていて安心する」光景だったと思う。
でも,そのとき娘は不思議そうな顔をしてこう言った。
「お母さんは何で席を譲るの?人間には序列があるの?」
彼女は別に電車で立ちたくなくてダダをこねて言ったのでもないし
思いやりが欠如しているのでもないと思う。
純粋に疑問だったのだと思う。
お母さんは慌てて「いいから立ちなさい」といって娘を立たせた。
「いいから立ちなさい」であの子は絶対に納得しないだろう。
君の言うとおり,この世界に住む人間には序列があるのだよ。
「平等」というのは最初からあるものでも他人に求めるものではなく政府が約束してくれるものでもなく
勝ち取るものなんだよ。
人種にも国籍にも,性的な嗜好や病気や身体的な特徴など,
何にも左右されずに「平等」に接することが出来るのは一定以上の高度な教育を受けることが必要だし。
そもそも隣人から隙あらば食料を奪う必要の無い安心した暮らしが大前提にある。
いつからか日本では「平等」は勝ち取るものではなく
「そもそも元から存在するもの」という意識が出来た。
そんな国がこの地球上でいったいどれだけあるのだろうか。
「誰にでも優しく,平等に人と接する」という人間が存在するといことは
実はこの世界がとてつもなく不平等だからなんだよ。
2009-08-26
OPEN/CLOSE
自分が舞台に立たない本番はやっぱり何か変な感じだった。
とてもいいメンバーと知り合えたので
「また再演しようか」
なんて話が既に出ている。
あざみ野の制作さんが「こっちの身にもなってくれ」とひやひや。
まあ先のことは分らんですな。
打ち上げでなんとみんなから色紙をもらう。
意外だったけど嬉しかった。
それだけみんなあの場所が大切だったと言うことだろう。
本当に良い時間だったと思う。
学校でいじめられている子も,なじめない子も,フラットな関係でいられたのだ。
僕が思うに,お互いのあらが見えずに打ち解け初めくらいの
ちょうどいい時期に公演を迎えられたのだと思う。
次に集まっても,当然だけど今回のような関係性ではいられない。
ましてや成長著しい年頃の彼らだ。
永遠の友は思い出の中にしかいないんだけど,
それを知ってしまうのも忍びない気がする。
また暗いほうに話題が行ってしまいそうなので方向転換しよう。
打ち上げは飲み屋。
僕は中高生がいるにもかかわらず泥酔。終電をすかさず逃す。
伊藤キムさん(振り付け,演出家)の家にお邪魔させてもらうことに。
キムさんの家は今時の広い良いマンションだった。
テロリストでも制圧できないだろうと思われる複雑な道を,
三人で深夜にもかかわらず悪ふざけをしながら進む。
僕は入ってすぐにうんこを要求。同行した高校三年の男の子の方がよっぽどしっかりしている。
その後,同じく泥酔気味のキムさんによる人生相談が始まる。
僕は迫り来る吐き気と戦っていたのでうつむいたまま聞いていない。
「吐いちゃったほうがいいんじゃない?」
とキムさんに言われるが,初めてきた家でゲロを吐くわけにはいかないと辞退した。が。
「こんなダンスやると気持ち悪くなるかもよ~」
といって目の前でクオリティの高いぐにゃぐにゃした動きをやるプロダンサー。
僕は本当に気持ち悪くなりゲロを吐いた。さすがプロだ。
今回参加した子供たちが,別に将来ダンスをやる必要は無いと思う。
むしろ今回の経験を生かしてどうするかが気になる。
その上で,10年後に同窓会みたいなことをやるのは面白いと思う。
2009-08-17
恋は岡目八目
もうそろそろ本番だ。
なんて吸収が早い奴らなんだろうと毎回驚かされる。
そして中二と中一と高三の男子と全く同じレベルで笑い合える自分が何か不思議。
狂ったように楽しい日々が続く。
やっぱり中二くらいだと何の抵抗もなく「セックス」って言いづらいらしい。
「僕の同級生がぁ,なんか,やっちゃったらしいんですよ」(「やっちゃった」はやや早口)
男子全員で「何を何を」っとっ突っつきまくったら,
「え・・エス,イー,エックス」
と逆にエロい響きの言葉が出て来て駅で男子達(一人は23歳)が笑っていた。
そういえば僕も高校卒業するまで下ネタが大嫌いだった。
物凄く嫌いだった。
あれは技術の無いやつの笑いだと思っていた。(今でもそう思うけどやめられない)
そのエスイーエックス君は13歳だけど自宅のパソコンで既に特撮を操っている。
作品は70以上あるらしい。
高三の男子は慶應高校に通う医者志望の子で,
患者とのコミュニケーション能力を養うために劇団ひまわりに自分から入っている。
ある女の子はピクチャーアートで学校で賞をとるバレエダンサーで
そのほかにもたくさんの才能を持った子がいる。
寺山修司の研究してる子がいた。(16歳)
キムさんも言っていたが,
「たぶん日本の将来って大丈夫なんじゃないかな」
彼らが理不尽に捻り潰されない社会であって欲しいと思う。
僕が踊り続けていれば今回みたいな場所がまた作り出せるのだろうか。
それだけでコンテンポラリーダンスの存在する意味はある気がする。
決められたフリがあるわけではないし,
型があるわけでもない。個人個人の感性が頼りだ。
だからといって適当なわけではないけれど。
僕は良い経験をした。
2009-08-03
better placeっていう脚本のタイトルを高校の頃から暖めていて,なかなか良いタイトルだと思うけど未だに形にしてない
大学生になると作るばっかで全然読む暇がなかった。
で,今は時間があるのでたくさん読んでる。
小説に限らず,何かを作る人たちは
何をしてもいいんだと思った。
今はもう色んなスタイルが出きってしまっている感があるから
何を選ぶかだけど
まあ基本的に何をしてもいいんだと思う。
でも
この間のコンテンポラリーダンサーのワークショップを踏まえて
何をしても良い
でもそこには
作者の充分な動機と
才能が必要だ。
変なことを目的として変な作品を作られると困る。
結果として変な風になっちゃったらそれは仕方が無い。
でもはじめっからそういうものをやらないで欲しい。
今年の上半期僕のベストオブ小説は台湾のレズビアンの小説家が書いた
「ある鰐の手記」だと思う。
僕はレズビアンの気持ちにも台湾の社会情勢にも全く興味がないけど
そこに描かれているのは本当に汚くて惨めなレズの女性たちのドロドロとした葛藤だけど
なんて美しい小説だろう
読み終わった後そう思った。
涙が止まらなかった。
台湾の事なんか何も知らない日本の男にとっても
あの小説にこめられたパワーには何かが反応したんだろうと思った。
この作家は確か26歳で自殺しているはずだが
僕が強く心を動かされたのは
「そうするしかなかった」「書くしかなかった」
そういった極限の集中力のようなそんな部分だったんだと思う。
だからまあ何をどう描いてもいいと思う。
麻薬だろうがセックスだろうがロリータだろうが戦争だろうが
でも
「本当にそうするしかないのか?」
という自分への問いを欠いているならそれはただの失礼になる。
そもそも「表現する」っていう言葉自体がなんか胡散臭い
もっと,なんか,にじみ出ちゃうものな気がする。
「ある鰐の手記」
そうなっちゃったんだろう。
この人は根っこから言葉を吐き出しているんだと感じた。
2009-07-23
賽は投げられたのではなく投げた
その場所によって求められる能力と言うのは違う。
どこへ行っても過去の自分を一度リセットして
何でも吸収できる柔軟な頭でいる事が必要なのだと思うようになった。
ある場所で全力で打ち込んで培ったり学んだりして得たものを
ふっと脱いでまっさらでいることはとても難しいことだ。
でもそんな勇気があれば怖いものなんてないと思う。
「栄光を得ることは難しい,でもその栄光を忘れることはもっと難しい」
と誰かが言っていた。
まあ栄光なんて得てないんだけども
先に進むためにはすがり付いてるだけじゃダメって事だ。
先日ある有名なコンテンポラリーダンサーのワークショップに行って
何もできなかった自分がいた。
ただ今考えてみても彼の進んでいる方向は明らかに間違っていると思った。
俗に言う現代劇術と言うのだろうか
ノイズとか生活音だけで音楽を作ったりするあの系統だ。
観客を壁に張り付かせたり床に寝かせたりダンスを見せなかったり
誰のためにやってんだよって思う。
そういうのは要は自分がどれだけIQが高いかだけを競うものなので
「けっ」って思う。
新しいことなんかもういいよ。
他者とどう向き合っていくかの方が重要なんじゃないのか。
その他者が友達でも社会でも神でも木でも虫でも自分でも良いけど。
なんてこととは別に,
自分自身へのダメだしとして
そんな場所でもまっさらになれれば何か変わったのかもしれないと言うことだった。
過去のメソッドや経験に固執して
流れに乗れない自分がずっと口惜しかった。
なんのダンス技術もない人のほうがどれだけ自然で魅力的だったろうか。
ここのところ
2年間ずっと続けてきたミーム(ダンス?の一種)を辞めたり
やっぱり2年以上付き合っていた彼女と別れたり
それこそ好き勝手に創作して遊びまくった大学を卒業したりと
とんでもなくもがきながら必死で地ならしして作り上げた
「居やすい場所」と決別してきた。
また一から出直しだ。
まあでも自分で選んだんだから仕方が無い。
思えばいつも
安定した秩序に恐怖感を持っていた。
なんでわざわざきついところに身を置くのか。
感謝もしているし恨みがましくもあるこの性格。
リセットしてリセットして
でも今のスタート地点は前のスタート地点よりも確実に前にあるんだぜ。
ひとまずあと12~3年は
わき目も振らずに走り抜けよう。
2009-07-13
2009-06-29
心が開いている時だけ世界は美しい
僕は自由に生きるーの♪
インテル♪
ということで
色々な要素を今は整理してる。
部屋を片付けたり要らない服を捨てたり,
積極的に関わる人間の数を制限した分
内省的になる時間が増えたように思う。
やたらと芥川龍之介の小説を読んでいる。
ていうか評論や書簡までも読んでいるからかなりのはまり方だ。
何に関しても,考えることを絶対にやめないという姿勢は
感動する。
戦い続けた人なんだなぁと思う。
六月がなんで憂鬱になるのか原因を考えたところ,
四月から僕に付与されている「新人君」というレッテルの効果が
段々薄れていく時期だからだと思う。
「新人君」であれば多少のミスは多目に見られるし
またちょっとした功績もより大きく捉えられる。
でも6月くらいになると
もう新人君とは見られなくなる。
かといってずっとやってきた人たちほどのスキルもない。
そうなると自分の不甲斐なさがことさら大きく感じる。
そして大抵の環境は四月と共に始まるから
そんな状況がバイト先だけでなく色んな生活圏で
同時多発的に起こってくる。
だからどこにいっても気分が休まらないし
落ち込むんだと思う。
今日の夕陽は不思議だった。
ボスボスと分厚い雨雲の向こうに
切り裂くように金色の太陽が地面すれすれに浮かんでいた。
不安な雨雲の向こうに一筋の光が
射していた。
それを見た瞬間,
ちょっと心の中に明るい兆しがひと月振りくらいにさした気がした。
よくよく考えればこのひと月の間,
雲や空や緑を見る余裕がなかった。
ちょっと思い出させてくれた。
ていうかちょっと本を読んでいる時間が長すぎる。
考えてみれば一週間で2~30作品以上読んでいる気がする。
一人でいてもダメなので
明日は(2年ぶりくらいに)服を買いに行こう。
気分転換をするという発想すらなかったことに気付いた。
危ない危ない。
明日は一人であーだこーだ悩んでこよう。
2009-06-19
heaven
新国立劇場で見てきた。
技術と言うのは素晴らしいと思った。
色々と話題になっているカンパニー(ダンス界では)ではあったけど
実際生で見るのは初めてだった。
さすが発売して3分で当日券がなくなるだけはある。(僕は2分50秒くらいで購入)
芸術的に何か新しい要素があるかと問われれば
別にあんまりないと思う。
ただもうあれだけ基礎があると
もう世界中誰も文句が言えない
っていうくらい鍛えられていた。
最近そう思うことが良くある。
大岡昇平の小説を読んでいても思った。
過去にこんなに「正確な」日本語を書く人はいなかったろう。
奇を衒うとか
パワーのある表現だとか
そんな安易なものじゃない。
「正確」な技術はただもうそれだけであらゆる表現活動の領域において
巨大な力である。
と思った。
技術は才能ではないし,天から最初から与えられたものではない。
でもだからこそ修めるのは難しい。
そこにはただ膨大な量の時間と,労力と
高いモチベーションを保ち続ける努力が必要だからだ。
まだ鬱が続いている。
でも何か奮い立って
地道にやり続けている基礎を続けようと思った。
自分の来た道は一本道で
もうちょっと振り返らずに走ってみよう。
2009-06-12
魔の六月
雨が多いからかもしれない。
疲れが取れなくなるし,不眠気味になるし,集中力が持続しない。
ていうか気分が上らない。
今日は晴れているのでいくらかマシ。
日本のミス・ファイナルアンサー細木数子氏の本を読み解くと
ちょうど火星人の僕は6月が大殺界だった。
来年あたりから良いらしい。
ていうか何の占いを見ても僕は「プライドが高い」と言われる。
(獅子座・寅年・火星人)
ていうか火星人てなんやねん。
今日の朝日朝刊の生活の欄に
「10歳になる甥の睾丸の左右の大きさが違う気がするんですがどうしたら良いでしょうか?」
という投書があって
偉い先生が「睾丸に腫瘍が出来ている場合が一番危険です」と真面目に答えていた。
「炎症の場合は痛みが出ます。腫瘍の場合は痛みはでませんが『コリコリ』とした
触感がでます。」
このやりとりはおかしくないか。
ていうかおばちゃんは10歳の甥の睾丸見つめてるんじゃねえよ。
普通は左右でちがうもんだよ。
先生も『コリコリ』じゃねえよ,何言ってんだよ!
日本は今日もぼんやりと平和だ。
2009-05-31
街は雨上がりで汚れていた
そういえば僕には新しい友達がいない。
全然気がつかなかった。
大学を卒業してから色んな人と関わったけど
友達は一人もいないで過ごしてきた。
それが一切苦にならないのは元々一人が好きな性質なのか
ただなんとなく忙しかったからか。
そういえば僕は物心ついたときから「クラス」という集団にいるのにずっと違和感があった。
「クラス」って何であるんだろう?
集団行動を学ぶ場だろうか。
でも集団行動を学ぶなら別に部活でも良いじゃん。
レクリエーションでも良いじゃん。
市民ボランティアで幅広い世代と自分で交流すればいいんじゃないのかな?
勉強は本質的に孤独な作業だから
別に一つの場所に押し込めて一斉に教えなくてもなあ。
英会話スクールのクラスは英語を学ぶために集まった集団
消防団は火を消すための集団
劇団は演劇するための集団
政党は政治を有利に運ぶために所属する集団
ダンススクールのクラスも個人のレベルに合わせたお互いの能力を研磨しあう集団
でも学校のクラスって何を目的としているんだろう?
体育祭やったり,文化祭で劇やったり,なんかテストの平均点比べられたり
ぼんやーりしている集団だ。
そのくせなんでか成員の感じる依存度や重要度は高いから
いじめが起きたりする。
僕はずっと部活や委員会の人とは仲が良かったけど,
クラスの人とどう接していいのか良くわからなかった。(もちろん仲の良い人は稀にいた)
「何で一緒にいるの?」ってところがずっと疑問だった。
でもクラスに喋るやつがいない事ほど重大に孤独を感じることはない。
高校生の頃の僕はそこまで面の皮が厚くなかった。
大学生になってからは「クラス」の縛りが弱くなったので
堂々と僕は「クラス」で友達を作らず過ごした。
そういうえば4年間で授業の相談をしたことも
ノートを見せてもらったことも一度もない。
自分で学びたいと一応責任持って選んだ授業だしなぁと思った。
自分とは合わない人間とも折り合えるように設置されたシステムなんだろうか?
いや,でも自分で選んだ場所だって,いけ好かない奴は当然居るし
色んな人いたし
その中でもどうにか目的を果たすために頑張ってきた。
ってのじゃダメなのかな。
なんかバッキリしたクリアな関係の方が僕は楽だ。
メール上だけの仕事とかバイト先とか,先生と生徒とか,先輩,後輩,そして
同期とか。何かクリアな目的を共有できる相手。
目的を共有してると,信頼しやすい。
死ぬほど利害対立してるとか
そもそも「友達」っていうのは
「利害」とか「上下関係」とか全部気にしないでいられる
そういう存在の方が良いはずだ。
うーん。
ただ根暗なだけかもしれない。
2009-05-24
観客ということ
アンケートの仕分けなどやっていると
結構色んな反応があって面白い。
自分に向けられたものではないから
気楽に読める。
「こいつわかってねえなあ」とか
「いや、それは誉めすぎだろう」とか
「なぜあの素晴らしい人の演技が伝わらないんだ」とか
なまじ楽屋で作業をしていて、作り手がそばにいるから
その人たちがどんな顔をしてどんな思いで作品を作っているかわかりやすいからだろう。
でも、ふと考える。
舞台上に乗っかった三時間足らずの短い時間の中で
100%作り手の意図が理解できてしまう観客は
果たして「良い観客」なんだろうか。
当然作り手は「何か」を伝えたいが為に
悩んで泣いて笑って頑張ってごまかしてのた打ち回って作品を作る。
作り手の意図したその想いが正確に伝わるように彼らは色々工夫する。
でも、
もし舞台上での表現者と
客席にいる観客の心の内が
すん分の狂いもなく完全に合致している舞台を想像すると
ちょっと気持ち悪いような気がする。
いや、それ新興宗教じゃん。
「捉え方は人それぞれだから、感じ方も人それぞれ」
って、まあそうなんだけど。
そうしたら作り手は何を拠り所にしてやっていけばいいんだろう。
劇場ってのは舞台上と客席とお互いに自己満足して自己完結して終わる
単なる一大オナニーマシーンじゃないか。
作り手がどんなにがんばっても
結局他人と自分との間には埋められない溝があるなら
作り手は何してもいいし。
格好良さとか時代とかジャンルとかを全部全部抜きにして、
確実に作品の「質」というのは存在していて
そこを捉えられたらすごく色んな世界が開けた。
何を見ても、「良いものは良い」とおもうようになった。
映画だろうが漫画だろうがアニメだろうが能だろうがバレエだろうがフラメンコだろうが
人形浄瑠璃だろうがボクシングだろうが絵画だろうが建築だろうが
もうそれを書いているだけで一日終わってしまうくらいの
あらゆる領域が興味の対象になった。
というのも僕個人の主観の一つなんだろうな。
たくさんのものに救われた。
村上龍(だと思う)がエッセイの中で
「人は『救われること』はあっても『救う』ことはできないのかもしれない」
と書いていた。
誰かを救うためにやっていたら
上に書いたみたいに観客と作り手が気持ち悪く融合してしまって
新興宗教みたいになっちゃう。
でも伝わんないと不満なんだ。
死ぬほど。
「何でわかんないんだ馬鹿!」
って思う。
ただ、意図したとおりになったらなったらで
「なんでこんなもんが評価されるんだ。冗談じゃねや、ケッ!」
って思う。
「別の事やってやる!」
と言うところまで考えて迷路に迷い込んで
文章にならないから、
まだまだ保留。
多分一生保留。
2009-05-16
出来なさすぎ君なんだ でも頭の中は出来過ぎくんなのか ちょっとまってくれ
思ったとおりに動いてくれよ。指とか腰とか下半身とか。
そうしたら凄いのに。
やばいことになってるのに。
いつでも頭の中はファンタジスタなのに。
でも頭の中通りにできなくてなんか違う感じになっちゃっても
それはそれで頭の中よりも面白かったりするから油断ならない。
踊っているとき何を考えているかって、怖いと思ってる、と思う。あんまり憶えてない。
自分がどうなっちゃうのか不安なんだ。
こっちに手をやったらどうなるんだろうとか
こんな方向に足が曲がったらどうなるんだろうとか
これはスジが切れちゃうかもとか頭を打つかもとか血が出るかもとか
怖くて怖くて仕方が無いのかも。
それは、なんでもそうで。
仕事だろうが小説だろうが恋愛だろうが
新しいことは怖いことだ。
生まれたばかりの赤ん坊が何で泣くかってあれは怖いから泣くんですよ。
怖くて怖くて仕方が無いから泣くんですよ。
空気が光が重力が臭いが触覚が怖いんですよ。
人間の成長とはどれだけ怖がったかで決まるんじゃないだろうか。
自分以外の他者を怖がって、家族にやっと慣れたら今度は学校が始まって、学校に慣れたと思ったら
今度は不特定多数と関わらなくちゃいけなくて、経済的なリスクが怖くて、天気が怖くて、自分が怖くて、
怖いものがどんどん増えていく。
皆怖い。
でも怖いから考える。
考えるのをやめられない。
どうにかして克服してやろうと考え続ける。
思えばやる気だろうが心意気なんてもので何かを解決できたことは一度もない。
「こうしたい!」ってやる気が出て、その日はやる。
でも三日以上続いたことがない。
何かをやり遂げる時は、
やり遂げるしかない仕組みみたいなものがもう周りにできているのだ。
怖いなぁ。
でもまたやるしかないんだろうなあ。周りを見ると。
クソ、上等だ。
考えるのをやめないぞ。
2009-05-13
考える前に走れって事か
昔は日本語が通じない猿みたいな生物が嫌いだった。
でも今は好きだ。
ついこの間も飲みの席で同席者の連れ子(一歳七ヶ月)につかまって
ホストみたいに奉仕していた。
バイトの休憩中も公園に必ず行く。
渋谷のセレブが集う公園で子供を見るためだ。
何かに対してただ何の抵抗もなく反応できる彼らを見ているだけで楽しい。
この間、赤ん坊が泣くさまを見て衝撃を受けた。
四肢が全て、同時に、まったく別の方向に動かすことが出来るのは赤ん坊のうちだけだ。
カラダは何かの反応がないと動かないから
あれは何かに反応しているのだろう。
たぶん人間にとってもっとも純粋な形の反応だろう。
あの領域に達するために世界中のダンサーが血のにじむような努力をしている。
そんなことを考えながらぼーっと子供を見ている。
変態だと思われないように注意しよう。
最近暑いと思う。
家の近くでダンスの練習をしていたらとんでもない量の汗をかくようになった。
そして蚊が出るようになった。
僕が練習しているところは森の中なので当然蚊が多い。
先日、無理な体勢から足がつけずに鼻血を出した。
誰も見ている人がいないからいいやと思って
そのまま鼻血ぶーぶーでやっていたら
気がつくと血と汗のにおいで僕は蚊の大群に囲まれた。
ちょっとでも止まったらすぐに囲まれる。
僕は蚊の攻撃にさらされながらもそこに何かの光明を見出していた。
「あ、この動き良いんじゃないか?」
そんなこんなでノンストップである空間を走り回りながら僕は
自分の体を探っていた。
ちょっとでも立ち止まるとすぐに追いつかれるので、
僕はその森の中のスペースを行ったりきたりしながら蚊から逃げ惑っていた。
およそ一時間ほど走り回った。
疲れたのでふと我にかえって周りを見渡すと、
ちょっと見たことがないほど大量の蚊の大群が
半径50メートル以内に充満していた。
歩いて帰ったらこいつらを全員家に連れて返ることになる。
僕は恐怖した。
さらにダッシュで帰った。
なんと一箇所もさされていなかった。
勝った。
2009-05-07
ゴールの先に無限にコースがある
業務は楽屋付近の雑用と言うことで、
出演者の方やそのご友人の人々とは良く顔を合わせることになった。
最近、演出家の蜷川幸雄が僕の目の前をよく横切る。
意外と背が小さい。
未だに挨拶が出来ない。
会釈しかしたことがない。
蜷川さんは僕の大学3年生までの神様だった。
ビデオで藤原竜也の「ハムレット」を見て演劇の概念、というか
表現の大枠が物凄く広がった。
「ああ、こんなにやっていいのね」
って思った。
その後は自伝やら演出論やら回顧録やらを読み漁った。
ダイナミックだったのだ。
僕が演劇と言うものに関心を持ち始めたとき現在の小劇場界はもう、
極めて小さな世界にとどまっていた。
身近な事柄を微妙な変化で見せる芝居が多かった。
もちろん井上ひさしさんのように、
舞台は庶民の日常でありながらも、
その劇構造自体が普遍的なドラマにつながるような作家もいる。
でもたぶん現在の若い人でそこまでやれてる人は一人もいないと思う。
当時の僕はそれはつまらないなぁと思っていたし、そんな欲求に答えたのが蜷川幸雄の演出だった。
50年100年のスパンではなく、
人間の存在そのものに挑戦していくような
そんなダイナミズムにあこがれた。
そう思って大学では自分で劇作をして演出もした。蜷川さんが作るようなものをやりたいと思った。
でも、うまく行かなかった。
失敗した。
原因を色々突き詰めていくにつれその理由も段々分ってきた。
今では別に小さい世界だろうが大きい世界だろうがあんまり区別しなくなった。
ただ、肩の力は抜かないとダメだなと思った。
僕の年代では身近な事象を描いたほうが有利であることも分った。
本当に大きい物語をやれている若い世代って
柿食う客という劇団だけではないかと思う。
現在は僕の興味は演劇と言う枠そのものも越えて
色んなことに興味を持ち始めている。
蜷川さん一人に心酔していた時期は過ぎているのだ。
だから蜷川さん本人と出会った時、
おこがましくも古い戦友と再開したような気になった。
そして彼はおよそ50年以上もその演劇と共に
わき目も降らずに走り続けて、
そして今も僕のすぐ目の前で
あの僕があこがれた演劇と関わり続けていた。
この人は今までどれだけ多くの批判にさらされていたのだろう。
それでも曲げなかったんだなぁと。
でも、僕の中で小さい物語だろうが大きい物語だろうが区別はなくなっても
やはり自分の作品はダイナミズムを基調としたいと
今でも思っている。
2009-04-28
向こう側で笑っている顔のない男を
「輝く未来」の稽古にお邪魔させてもらっている。
何故かと言うと、
今年の8月にあざみ野で行なわれる中高生たちと伊藤キムさんのダンス公演のアシスタントに選ばれたからだ。
選ばれたと言うか、
男性の応募者が僕しかいなかったからだ。
「じゃあ良いや。もう決めちゃおう。お願いします」
というラッキーな具合だったのである。
二回ほど中高生たちとワークショップをした後
「輝く未来の稽古に参加したら?」
という具合で邪魔させてもらっている。
巨大な実力を持ったプロと
週に二回も一緒に踊れている現在は
ちょっと夢のようだ。
でも、必死だ。
毎回稽古のたびに自分の弱さを痛感している。
絶望的なくらい不自由な自分の身体と、
隙さえあればすぐに楽な方向へ行きたがる頭と、
双子の出来損ないの嬰児を抱えて、
僕の中にいる
毎回ちょっとだけ顔を見せる
天使のような顔と青い空を頂いたあの世界を背負った奴らは
グビグビとその居場所を奪われて、
びっちゃりと醜い顔をして死んでしまって、
後に残ったのはなんだか食べたら苦い空っぽのでも真空じゃない、
そんな空洞が残っていらいらして、
天使が死んだ後の墓には、
また甦ってくるような余地を残しているその穴に、
またぱさぱさの埃をばっこりとして埋めてしまうのだ。
自分はとても面倒くさがりやだから、
キツイ場所にいないと自分を高めようとしない。
締め切りがないと脚本も何も書かない。
自分で選んだ道のくせに、
もう安寧としようとしている自分に最近気付く。
稽古場の空気にも慣れて、人にも慣れて、
ただ受け身でその日をやり過ごしてたんじゃ
なんの為にキツイ場所に身を投じたんだか。
やらなくちゃいけないことは目の前に山ほどあるのに、
何も言われないからってなんとなく楽しく過ごせるからって、
それでそんな日々を過ごすならやめちまえよ。
そこで終わりたくないから巨大な力のそばに身を置くことに決めたはずだ。
友達がいるからとかじゃなくて、自分と似た臭いがあるからじゃなくて、
楽しむためとかじゃなくて、選んだ。
そう思って
今も僕は股関節をゴリゴリ言わしている。
明日も自主稽古だ。
頭でこねくり回そうとする自分とか
恥ずかしがる自分とか
格好良く見せようとする自分とか
ただ盲目になろうとする自分とか
追いつけないぐらい身体を動かして行こう。
向こう側になんかちらちら顔が見える。
自分を全部振り切って、
そいつの顔をひっかきに行こう。
2009-04-20
戦場で拾った弾丸と僕の胸に今も残ってる弾丸をじっと見つめてみる
見に来てくれた人たちには本当に感謝しています。
大した企画じゃないのに、大学時代所属していたサークルの後輩たちは
思いのほかたくさん来てくれてとてもびっくりした。
と、共に嬉しかった。
本当にありがとう。
今回は稽古場は全て、本番の舞台で行なわれた。
「スローコメディー」というレストランだか飲み屋で、
そこにあるベンチの周り2メートルくらいが僕らの舞台だった。
当然店なので稽古をしているとお客さんが入ってくる。
そうなると稽古はお開きで、そこは稽古場から店になる。
色んな人が入ってきた。そして思ったのは、街それぞれに風土や礼儀があって
僕は下北沢のそれには合わないらしいという事だった。
下北沢に住んでいる人は(お客さんも下北在住の人が多かった)
皆オシャレでたぶんそれなりの社会的な地位があって
仕事以外にたぶん2,3個の趣味があって、
人間関係のネットワークもそこここに多層的に存在しているのだと思う。
そしてそれらと上手く折り合いをつけながら、でもあくまで下北沢という街に誇りを持っていそうだ。
だから彼らはどんな人間ともフラットでオープンに接してくる。
それに対して僕はそんなことができない。
「完全な上辺」での付き合いか「相手の最深部までなだれこむか」しかできない。
微妙に深いところまで入ってまた次の人間と話し出す
っていうのができない。
朝までの飲み会でも
一人の人間と4~5時間喋ってるか
うまく集団の騒ぎに紛れて時間を潰すか、二言三言の言葉を交わすのを延々くり返すか
そのどちらかな気がする。
あくまでも自分の安全な領域はキープしつつ、
でも何かを相手から得たいと(それは知識でも情報でもコネクションでも金でも自己陶酔でも)
微妙な距離感をとって相手の輪郭だけを捉えて
後は去っていく。
僕には寂しく感じる。
人と深く触れ合うことは基本的に痛みを伴うし、
リスクも大きい。
でも興味がないなら僕はあえて人と会話は絶対にしない。
今ある自分がとても不安定で崩れることは覚悟して人とは接するようにしている。
そう判断した人としか僕は喋れない。
そういう人に対しては僕は結構正直にひどいことを言ったりする。
最近僕が思うのは、
その人間のことを理解するのに時間と言うのはあんまり関係ないんじゃないかと言うことだ。
かつて僕には中学時代「親友」だと思っていた奴がいて、
四六時中一緒にいた。一緒に遊んだ。
夏休みの30日間、ただ彼のうちで一日パワプロ98’をやり続けた。
それが友達だと思っていた。
結局彼とは高校1年の時に絶交した。
(僕にとっては)信じられない裏切りにあったからだった。
何時間話しても、何年一緒にいても、何回一緒に飲み会に同席しても、
その人の事が分るってもんじゃない。
逆に今僕が参加しているダンスワークショップにいるある男とは
プライベートはお互い何も知らない。
年齢も、出身地も、好きなミュージシャンも、文学も、好きな食べ物も、
一言も話したことはない。
ただ、ダンスという一点でしか彼とは触れていない。
でも一緒に踊っているとき、僕は彼に全体的な信頼を置いている。
たった週に3時間の中で、僕はそれまであったこともないその男と
その男自身の言葉さえ必要ないくらいに
彼自身と触れ合っている気がする。
ダンスだけで、後は知らない。
それは果たして浅い付き合いなんだろうか?
2009-04-12
戦場の銃弾の代わりに日本では会話を拾ってみる
「夕陽です」
と答えることにしている。
「あと、朝焼けも好きです」
と、言おうと思っているけど今のところ誰にも聞かれたことはない。
僕は夕陽を見るのが好きなので、バイトから帰る時の窓に映る夕陽は
首が痛くなる角度になっても眼を皿のようにしてみている。
犬の散歩をしていても彼女(メス)の意志は無視して20分くらいぼーっと見ている。
バイクに乗っていると事故りそうになる。
この夕陽と言うのはせっかちで
本当にきれいな時間帯はたぶん1分もないんじゃないだろうか。
しかも季節によってその時間帯はすぐに変化するし、
その時々で鮮やかな色彩も違うので
本当に破裂しそうなくらい美しい夕陽を見れるのはとても運が良い事だと思う。
ある日、僕は電車の帰り道にやっぱり夕陽を見ていた。
まあまあだった。
ふと、僕は後ろで立っている男女二人の会話を凄く注意して聞いてみた。
別に気になったからではなく、夕陽が沈んでしまったからやることがなかっただけだった。
女「でもー、何か、ただあいまいに笑った感じ」
男「えー、それ一番ひどくない?」(男は控えめな感じ)
女「ああ、ちょっと気を持たせるかなって」(控えめな感じ)
男「うん」
女「でもはっきり言ったら可哀そうじゃん・・?」
男「ああ(笑)でもシュウくんアグレッシブだからね」
女「うん。すごいメール来た」
男「どんな?」(食いついた感じではない)
女「え、何か、地元どことか、絶対最後は疑問系で締めてて(笑)」
男「すげえ(軽い笑い)あれ、情報社会学一緒だもんね」
女「うん、なんかノート見せてとか。私も取ってないんだけど(笑)」
男「あれ大丈夫だよ」
女「ていうか私ら3年じゃん。卒業できんのかな?」(別に回答が欲しいわけではない聞き方)
男「大丈夫じゃない?」
女「ていうか、シュウくんどうしよう(笑)?」
男「えー、なんで?シュウ駄目なの?」
女「えー」
男「すごい優しいじゃん」(別にシュウを養護してるわけでもない)
女「うん。優しい」(割と即答)
男「いい奴だよね」
女「いい奴だと思う。でもなんか弟って感じ」
男「あー」
女「なんか」
男「そうだね。(間)子供っぽいとこあるかも」(手探り)
女「うん。誰か好きな人いるんだって言っとこうかな?」
男「あ、ベタに?」
女「飯田先輩とかかな?」
男「あーベタ!」(格好いいらしい)
女「うん、でー、何かセッターとかでポジションかぶってるから凄い相談されたがるの(笑)」
男「あー」(どうやら大学のバレーサークルらしい)
女「セッターってさ・・。みたいな?(笑)」
男「疑問系で?」
女「うん、この間普通に無視したけど(笑)」
男「ねえよそんな悩み(笑)」
女「和田先輩とかどうかな?」(好きな人の話題に戻った)
男「彼女いるじゃん?っていうか二人とも」
女「そういうキャラで行こうかな?」
男「(笑)」
女「えっとー実は好きな人いるんですーって言えば」
男「その二人だとシュウあきらめるかも」
女「普通になんか、タフだよね」
男「うん、シカトとかされてももう、攻めるよあいつは」(シュウは割りとタフらしい)
女「うん」
男「ていうか真面目にいないの?」(女の好きな人の話しになった)
女「えー。吉岡さんとか?」
男「あー、良いんじゃない?」(まるでショーウィンドウの商品を選ぶみたいに)
女「良いよね。なんか包容力あるし」
男「うん、でももう恋愛沙汰は勘弁だよね?」
女「結局尻拭いって言うか、人間関係とか調整すんのうちらだもんね」
男「うん」
女「ていうか前4年の先輩に超怒られたし」(サークルで色恋沙汰があったらしい)
男「後は?」(矛盾なく恋の話に戻る)
女「んー?」
男「一年生に期待かな?」
女「ああ、新しい奴をあさるか(笑)」
男「(笑)あさる」
ここで、調布について女性のほうが降りる事になった。
声の感じからして女性は170センチオーバーはありそうだった。(バレーサークルだから男のほうも170後半くらいか?)
電車の中で会話している人の方向を向くのは失礼なので、
僕は降車する時に路線図を見るフリをして女性の顔をはじめて見ることが出来た。
ええええええええええ!!!!
「貴乃花」やないかーーー
いや違う。むしろ
若乃花やないかーーーー
電車の中は戦場のように会話の弾丸が飛び交っている。
この日は色々収穫があった。
ちなみに男の顔は見れなかった。
さあ寝よう。
2009-04-07
春、下痢はまだしてない
さあ、いつの間にか僕は4月から社会人になった。
大学も卒業して、就活もしていないから4月から何の予定もないので、
きっと自分はうつ病になるんだと思っていた。
そもそも在学中も春になると必ず極度に気分が落ち込むことがあって、
周りに迷惑をかけていたので。
さて、今年の四月は
全くない。
おかしいくらいに毎日が充実している。
それはシアターコクーンでのバイトが決まって芝居が見放題だとか
ある有名なコンテンポラリーダンサーとダンスをすることになっただとか
4月に下北沢でちょっとした二人芝居をすることになったとかで毎日が忙しいのも原因だと思う。
というか、自分の中で知らず知らず自分が在籍していたサークルを背負っちゃってたところがあるから
かなあとも思った。
肩の荷が下りたとたんに物凄く身軽になった。
部長なんて役職をやっていたけどやはり自分は後輩肌なんだと思った。
「ホーム」っていうのは自分を助けてくれる部分もかなりあったけど
守られている盾の分重くて動きづらい感じなのかもしれない。
ていうか勝手に自分で重くしていたのだろう。
今はできるだけ新しい人と関わりたい。
自分のことを知らない人、話したことない人、話そうと思わなかった人、
話しかけたくても離せなかった人、自分のことを一方的に知っている人、
年齢も性別も国籍も関係なく。
これももしや新たな「ホーム」作りの一環だったりするのだろうか。
しかしそう思っていたら、
最近やたら不審者とか宣教師とかに話しかけられる。
不審者のおばあちゃん(痴呆かもしれない・・よくわからない)
にこの間話しかけられたときは
「お前アイボだろ?アイボだろ?!」
と、人間はこんなに他人に悪意を真っ直ぐぶつけられるのかと思うくらいの状態で言われた。
たぶん機械の犬のアイボのことだろう。
「お前の鼻はマイケルジャクソンだな!?」
「生きてる価値無いよね~、ほんと生きてる価値ないわ」
などの罵倒を十数分続けた後に彼女は帰っていった。
もちろんコミュニケーションは一方通行だ。
宣教師のお兄さんとは「人生」の意味について路上で30分くらい喋っていた。
このときは楽しかった。
宣教師の人からも「自分のこの世における機能はなんだと思いますか?」
とかおばあちゃんからも「生きてる価値がない」とか言われるし、
なんだか共通しているのかもしれない。
「あなたの生きてる意味はなんですか?」と宣教師の人に言われた時、僕は
「特にありません」
と答えた。
生きる意味は、あるものじゃなく掴み取るものだと思ったからだった。
自分を毎日磨きながら、みんな自分の生きる機能とか意味とかを必死になって掴もうとしてる
そんなもんなんじゃないかと思った。
生まれた時から生きる意味を与えられてるのは一部の特権階級だけなんだろう。
みんなそれを探して生きてるんですよ。
今は僕には特にこの世に存在する意味とか機能とかはないけど、
これから少しづつ僕は自分の生きる意味を作り出したり
掴もうと思っている。
もしかしたらあのおばあさんも何かがあって、
ああやって他人に悪意をぶつけることで必死になってこの世界とつながろうとしていたのかもしれない。
悪意をぶつけることで他人を確認して自分が存在していることを
かろうじて確認しようとしていたのかもしれない。
もうちょっと話してみればよかった。
2009-01-06
ウミ
今年の目標は基礎を築くこと(2年前から同じ)にしましたKEKEです。
前回の公演が終わり僕は年末から年明けにかけて色々あって
人生でこれほど悩んだことはないって言うくらい悩みましたが
なんとなく全部ALLRIGHTしました。もう俺は迷わないぜ。
迷わない?いや、たぶん迷うんですけど。でも、迷ってももうゴールの灯みたいなのが見えていて、
どんなにそこまでの道のりが霞んでいようが、荒れた海のようだろうが
もうそこがあるんだ。その明かりに向かって進めば良いんだって言うところを
見つけたのだ。だから迷うし止まるし悶えるし、しかしもうそれは愛嬌だ。
じゃあ何も変わってないじゃないかと言われれば・・まあそうだと思う。
随分迷いながらやった公演だけど、まあお客さんがどう感じるかが一番なので、
それは良いとして、自分でもそろそろ前回やった「薔薇戦争」を振り返ってみようと思う。
今僕が「薔薇戦争」を見返すと、一言で言えば
病んでいる。
訳のわからない被害者意識と自己愛と自虐と振り向いて欲しい感がグダグダになっているなぁ。
今思うとなんでこんな作品を作ったのかわからない。
別に批判しているわけではなくて、
この精神状態はなかなか自分でも理解しにくいものだからお客さんはもっと良くわからないだろうと思う。
これ作っているときは別にいつ死んでも良いやって思ってたし、
俺はジャンル分けなんかされないとか認められないまま終わる表現者でそうなるべき人間なんだとか
訳のわからないことを考えていた。
お前は自分が思っているほど人の関心にがんじがらめに束縛されているような
深刻な性質を持った人間ではないし、
かといってお前が思っているほど周りはお前を大事に思ってないわけではないんだぜっていうところに
行き着いてからは、
とても楽になった。
勝手に自分は一人だって思い込んでいて、勝手に用意した自作の檻の中で、
勝手に敵だと思い込んだなにかに向かって「出してくれ!」と叫んでいた。
そんな悩みの塊のような公演だった。
一人どころか、まあそういうことを考えるくらいよくいるタイプの人間なんだったんだなぁ。
というわけで「薔薇戦争」は「ばらせんそう」とは読みません。
これは「とりこしぐろう」と読みます。
2009-01-01
終わりました
最終日、38度の高熱を出しながら叫んだりしたために
終演後トイレにダッシュしてお客様に何の挨拶も出来なかったこと
深くお詫びします。
その後は主催なのに打ち上げに出られずに
関係者の方々に御心配かけたこと
この場を借りて深くお詫びします。
今は熱も下がりました。K−1を見て興奮していられるくらい回復しましたので大丈夫です。
あの日は朝から水下痢だったので「何か変だなー」と思っていましたが、
もともとみかんとコーヒーを一緒に食べるだけで下痢をするほど胃が弱い性質なので
あまり気にかけませんでした。
たくさんのお客様に見ていただいて、たくさんのアンケートを読んで、
今までなら破いて捨ててしまいたくなるようなものでも
今回は何でか素直に見ることが出来ました。
誉めてもらったものや純粋に嬉しかったものもたくさんありました。
本当に本当にありがとうございました。
この自己愛クソ野郎の芝居にどうしてこんなにたくさんの人が関わってくれて
どうしてこんなにたくさんの人が見に来てくれるのだろうと
不思議でなりません。
厳しい意見も、肯定的な意見も、こんなにありがたいものだったなんて
考えたこともありませんでした。
思ったのは、
死ぬ気で作った誰かの作品は心に響くけど、
同じくらい強い思いで書かれたアンケートも同じくらい表現者の心に響くんだ
ってことです。
そういうアンケートは読んでりゃ分ります。
本気で感じてくれて、本気でこちらと同じ気持ちになって見てくれた人の言葉は
こっちに絶対伝わります。
それが批判であれ罵倒であれ、僕には今回全て嬉しかったです。
作り手は一つの作品のために何ヶ月も掛けて全力を出しますが、
見るほうはそれを本当に舞台上に乗っかった一瞬で感じ取らなければいけません。
「見る」ことは「作る」ことと同じくらい大切なんだと思いました。
全力で「見る」ことができないやつに全力で「作る」ことなんか出来ないんだ。
観劇の時はいつも受身でなんとなく上から目線だった僕は過去が恥ずかしい。
これからは「感じさせてくれよ」じゃなくて
「感じてやるぜ」って態度で作品を見よう。
だからこれから僕がもし作品を作るときは全力だ。
だから全力で見に来て欲しい。
そんなわけで、
今回12月のKEKE−PLAYに関わってくれた皆様ほんとうにありがとうございます。
そして、
見に来てくれたお客様
ほんとうにありがとうございました。