2009-04-20

戦場で拾った弾丸と僕の胸に今も残ってる弾丸をじっと見つめてみる

下北沢でのちょっとした芝居が終わった。

見に来てくれた人たちには本当に感謝しています。

大した企画じゃないのに、大学時代所属していたサークルの後輩たちは

思いのほかたくさん来てくれてとてもびっくりした。

と、共に嬉しかった。

本当にありがとう。


今回は稽古場は全て、本番の舞台で行なわれた。

「スローコメディー」というレストランだか飲み屋で、

そこにあるベンチの周り2メートルくらいが僕らの舞台だった。

当然店なので稽古をしているとお客さんが入ってくる。

そうなると稽古はお開きで、そこは稽古場から店になる。

色んな人が入ってきた。そして思ったのは、街それぞれに風土や礼儀があって

僕は下北沢のそれには合わないらしいという事だった。

下北沢に住んでいる人は(お客さんも下北在住の人が多かった)

皆オシャレでたぶんそれなりの社会的な地位があって

仕事以外にたぶん2,3個の趣味があって、

人間関係のネットワークもそこここに多層的に存在しているのだと思う。

そしてそれらと上手く折り合いをつけながら、でもあくまで下北沢という街に誇りを持っていそうだ。

だから彼らはどんな人間ともフラットでオープンに接してくる。

それに対して僕はそんなことができない。

「完全な上辺」での付き合いか「相手の最深部までなだれこむか」しかできない。

微妙に深いところまで入ってまた次の人間と話し出す

っていうのができない。

朝までの飲み会でも

一人の人間と4~5時間喋ってるか

うまく集団の騒ぎに紛れて時間を潰すか、二言三言の言葉を交わすのを延々くり返すか

そのどちらかな気がする。

あくまでも自分の安全な領域はキープしつつ、

でも何かを相手から得たいと(それは知識でも情報でもコネクションでも金でも自己陶酔でも)

微妙な距離感をとって相手の輪郭だけを捉えて

後は去っていく。

僕には寂しく感じる。

人と深く触れ合うことは基本的に痛みを伴うし、

リスクも大きい。

でも興味がないなら僕はあえて人と会話は絶対にしない。

今ある自分がとても不安定で崩れることは覚悟して人とは接するようにしている。

そう判断した人としか僕は喋れない。

そういう人に対しては僕は結構正直にひどいことを言ったりする。

最近僕が思うのは、

その人間のことを理解するのに時間と言うのはあんまり関係ないんじゃないかと言うことだ。

かつて僕には中学時代「親友」だと思っていた奴がいて、

四六時中一緒にいた。一緒に遊んだ。

夏休みの30日間、ただ彼のうちで一日パワプロ98’をやり続けた。

それが友達だと思っていた。

結局彼とは高校1年の時に絶交した。

(僕にとっては)信じられない裏切りにあったからだった。

何時間話しても、何年一緒にいても、何回一緒に飲み会に同席しても、

その人の事が分るってもんじゃない。

逆に今僕が参加しているダンスワークショップにいるある男とは

プライベートはお互い何も知らない。

年齢も、出身地も、好きなミュージシャンも、文学も、好きな食べ物も、

一言も話したことはない。

ただ、ダンスという一点でしか彼とは触れていない。

でも一緒に踊っているとき、僕は彼に全体的な信頼を置いている。

たった週に3時間の中で、僕はそれまであったこともないその男と

その男自身の言葉さえ必要ないくらいに

彼自身と触れ合っている気がする。

ダンスだけで、後は知らない。

それは果たして浅い付き合いなんだろうか?

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