2009-04-07

春、下痢はまだしてない

物凄く久しぶりにここに文章を書いて見ようとさっき思った。

さあ、いつの間にか僕は4月から社会人になった。

大学も卒業して、就活もしていないから4月から何の予定もないので、

きっと自分はうつ病になるんだと思っていた。

そもそも在学中も春になると必ず極度に気分が落ち込むことがあって、

周りに迷惑をかけていたので。


さて、今年の四月は




全くない。


おかしいくらいに毎日が充実している。

それはシアターコクーンでのバイトが決まって芝居が見放題だとか

ある有名なコンテンポラリーダンサーとダンスをすることになっただとか

4月に下北沢でちょっとした二人芝居をすることになったとかで毎日が忙しいのも原因だと思う。

というか、自分の中で知らず知らず自分が在籍していたサークルを背負っちゃってたところがあるから

かなあとも思った。

肩の荷が下りたとたんに物凄く身軽になった。

部長なんて役職をやっていたけどやはり自分は後輩肌なんだと思った。

「ホーム」っていうのは自分を助けてくれる部分もかなりあったけど

守られている盾の分重くて動きづらい感じなのかもしれない。

ていうか勝手に自分で重くしていたのだろう。

今はできるだけ新しい人と関わりたい。

自分のことを知らない人、話したことない人、話そうと思わなかった人、

話しかけたくても離せなかった人、自分のことを一方的に知っている人、

年齢も性別も国籍も関係なく。

これももしや新たな「ホーム」作りの一環だったりするのだろうか。

しかしそう思っていたら、

最近やたら不審者とか宣教師とかに話しかけられる。

不審者のおばあちゃん(痴呆かもしれない・・よくわからない)

にこの間話しかけられたときは

「お前アイボだろ?アイボだろ?!」

と、人間はこんなに他人に悪意を真っ直ぐぶつけられるのかと思うくらいの状態で言われた。

たぶん機械の犬のアイボのことだろう。

「お前の鼻はマイケルジャクソンだな!?」
「生きてる価値無いよね~、ほんと生きてる価値ないわ」

などの罵倒を十数分続けた後に彼女は帰っていった。

もちろんコミュニケーションは一方通行だ。

宣教師のお兄さんとは「人生」の意味について路上で30分くらい喋っていた。

このときは楽しかった。

宣教師の人からも「自分のこの世における機能はなんだと思いますか?」

とかおばあちゃんからも「生きてる価値がない」とか言われるし、

なんだか共通しているのかもしれない。

「あなたの生きてる意味はなんですか?」と宣教師の人に言われた時、僕は

「特にありません」

と答えた。

生きる意味は、あるものじゃなく掴み取るものだと思ったからだった。

自分を毎日磨きながら、みんな自分の生きる機能とか意味とかを必死になって掴もうとしてる

そんなもんなんじゃないかと思った。

生まれた時から生きる意味を与えられてるのは一部の特権階級だけなんだろう。

みんなそれを探して生きてるんですよ。

今は僕には特にこの世に存在する意味とか機能とかはないけど、


これから少しづつ僕は自分の生きる意味を作り出したり

掴もうと思っている。

もしかしたらあのおばあさんも何かがあって、

ああやって他人に悪意をぶつけることで必死になってこの世界とつながろうとしていたのかもしれない。

悪意をぶつけることで他人を確認して自分が存在していることを

かろうじて確認しようとしていたのかもしれない。

もうちょっと話してみればよかった。

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