「いかした女」という言葉を聞かなくなった。
現在ではあんまり珍重されない価値観なのかもしれないし。
どうも80年代(もっと昔か?)のにおいがする。
でも僕は京王井の頭線でそのワードが一番しっくりくる6~7歳の女の子を見た。
最初見たとき,
なんて自分と言う存在をしっかりと持っているような目をした子だろうと思った。
まわりの大人たちと比べても
背筋はしっかりと伸びているし,視線は真っ直ぐに観るべきものを見ていた。
ちょっと説明するのは難しい。
ただ,存在がぼんやりとしていなかったのだ。
輪郭がはっきり見えるというか。
彼女は親子連れで,お母さんは見るからに優しそうな,
「どんな人間でも私は平等に扱いますよ」と言っているような顔をしていた。
地域清掃のボランティアの帰りのようだった。
お母さんは,電車で目の前のつり革に立ったご老人二人組みに席を譲った。
そして娘にも自分と同じようにするように勧めた。
誰が見ても微笑ましい光景だった。微笑ましいというよりも,「みていて安心する」光景だったと思う。
でも,そのとき娘は不思議そうな顔をしてこう言った。
「お母さんは何で席を譲るの?人間には序列があるの?」
彼女は別に電車で立ちたくなくてダダをこねて言ったのでもないし
思いやりが欠如しているのでもないと思う。
純粋に疑問だったのだと思う。
お母さんは慌てて「いいから立ちなさい」といって娘を立たせた。
「いいから立ちなさい」であの子は絶対に納得しないだろう。
君の言うとおり,この世界に住む人間には序列があるのだよ。
「平等」というのは最初からあるものでも他人に求めるものではなく政府が約束してくれるものでもなく
勝ち取るものなんだよ。
人種にも国籍にも,性的な嗜好や病気や身体的な特徴など,
何にも左右されずに「平等」に接することが出来るのは一定以上の高度な教育を受けることが必要だし。
そもそも隣人から隙あらば食料を奪う必要の無い安心した暮らしが大前提にある。
いつからか日本では「平等」は勝ち取るものではなく
「そもそも元から存在するもの」という意識が出来た。
そんな国がこの地球上でいったいどれだけあるのだろうか。
「誰にでも優しく,平等に人と接する」という人間が存在するといことは
実はこの世界がとてつもなく不平等だからなんだよ。
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