2009-05-24

観客ということ

コクーンのバイトで、

アンケートの仕分けなどやっていると

結構色んな反応があって面白い。

自分に向けられたものではないから

気楽に読める。

「こいつわかってねえなあ」とか

「いや、それは誉めすぎだろう」とか

「なぜあの素晴らしい人の演技が伝わらないんだ」とか

なまじ楽屋で作業をしていて、作り手がそばにいるから

その人たちがどんな顔をしてどんな思いで作品を作っているかわかりやすいからだろう。


でも、ふと考える。

舞台上に乗っかった三時間足らずの短い時間の中で

100%作り手の意図が理解できてしまう観客は

果たして「良い観客」なんだろうか。

当然作り手は「何か」を伝えたいが為に

悩んで泣いて笑って頑張ってごまかしてのた打ち回って作品を作る。

作り手の意図したその想いが正確に伝わるように彼らは色々工夫する。

でも、

もし舞台上での表現者と

客席にいる観客の心の内が

すん分の狂いもなく完全に合致している舞台を想像すると

ちょっと気持ち悪いような気がする。

いや、それ新興宗教じゃん。


「捉え方は人それぞれだから、感じ方も人それぞれ」

って、まあそうなんだけど。

そうしたら作り手は何を拠り所にしてやっていけばいいんだろう。

劇場ってのは舞台上と客席とお互いに自己満足して自己完結して終わる

単なる一大オナニーマシーンじゃないか。

作り手がどんなにがんばっても

結局他人と自分との間には埋められない溝があるなら

作り手は何してもいいし。


格好良さとか時代とかジャンルとかを全部全部抜きにして、

確実に作品の「質」というのは存在していて

そこを捉えられたらすごく色んな世界が開けた。

何を見ても、「良いものは良い」とおもうようになった。

映画だろうが漫画だろうがアニメだろうが能だろうがバレエだろうがフラメンコだろうが

人形浄瑠璃だろうがボクシングだろうが絵画だろうが建築だろうが

もうそれを書いているだけで一日終わってしまうくらいの

あらゆる領域が興味の対象になった。

というのも僕個人の主観の一つなんだろうな。

たくさんのものに救われた。


村上龍(だと思う)がエッセイの中で

「人は『救われること』はあっても『救う』ことはできないのかもしれない」

と書いていた。

誰かを救うためにやっていたら

上に書いたみたいに観客と作り手が気持ち悪く融合してしまって

新興宗教みたいになっちゃう。

でも伝わんないと不満なんだ。

死ぬほど。

「何でわかんないんだ馬鹿!」

って思う。

ただ、意図したとおりになったらなったらで

「なんでこんなもんが評価されるんだ。冗談じゃねや、ケッ!」

って思う。

「別の事やってやる!」

と言うところまで考えて迷路に迷い込んで

文章にならないから、

まだまだ保留。

多分一生保留。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

たなか♀あいぼんです。
コメント気付くかな。。?

23の夜、『雨の夏~』観てきました。
君はロビーにいなかったようでした。残念。

個人的には大満足だったけどなー。
コクーンシートだったから、
真っ直ぐ観られるところからもう一回観たいくらい。
どの方も素晴らしかったけど、
特に1幕ラストの毬谷友子の歌唱に圧倒された。
同行した友人は、
『芝居と、ミュージカルと、宝塚と、私が観たい物の良いところをちょっとずつ全部集めたみたいな作品だった』
って。

感じ方は、本当に人それぞれだよね。