2013-01-07

本番


瞬間、意識を喪った。

それは本当に一瞬のことであるから、ぶっ倒れるとかそういうことにまでは至らなかった。

白熱灯のオレンジのあかりに染められた白い壁に少し、音をたてないように手をついた。

意識を確認する。

すうっと、波が引いていくように全身に血がめぐる。体温がもどる。大丈夫だ。たぶん倒れることはないだろうと判断した。

それまでの準備運動を一旦休止する。

準備運動といっても、かなり激しく呼吸をして体を上下に折り曲げるものであった。

稽古の時分にも言われたが、きちんと呼吸ができていれば酸欠、あるいは過呼吸の状態にはならない。

つまり吸気、排気の比率が等分になされていれば思いのほかこの運動は肉体的に楽なもので、しかも全身の細胞をほぼくまなく使用することができる。

からだを起こすアップには最適なのだ。

ただ、いま意識を喪ったということはそれがうまくいっていなかったので、自分はまだまだ未熟で身体は未覚醒であるということなのだ。



もうすぐ本番なのに。





すぐに自意識が舞い戻る。瞬間意識を喪っていたことを周りの人間に気取られていないか横目でうかがう。

別の出演者のスタッフは変わらぬ様子でタバコを吸っている。

時間を確認すると、自分の出番までまだ1時間ほどあった。

本番までには疲れきってしまおうと考えていた。

ただその疲れきるまでの道のりを幾度となく修正しながらいまだに自分は決めきれていなかった。

30分前に一気にやってしまおうとも考えていた。

ただ、もしその短い時間のなかで最高の状態に持っていくことができなかったらと思うと非常な恐怖だった。

だからといっていまから始めてしまって、知らず知らず手を抜いて、嫌らしくねっちりとした疲労だけが残ってしまうのも最悪だ。

実際に稽古の段階でそういうことが起きた。

何もできないうえに頭の中の自意識だけはのさばって、形だけの覇気のないものになった。

手のひらをひらひらと動かす。この時に足の裏や腰が直接意識にのぼっていないとダメな状態。

実際に今は手のひらだけしか意識できていない。応えてくれない。

ふっと直立する。

どんな感覚だろうが、直立した時に一切の無駄な力が入ってない状態こそが本物だ。と最近ようやく気がついた。






まだ、遠い。








僕は誰に断るわけでもなくスタッフルームの小さな更衣室周辺を独占して練習をしている。

誰ともしゃべりたくなかった。

何を思われようとも自分の練習を全うしたかった。



僕は再び激しい呼吸運動を再開した。


オレンジ色の光源が視界の中で長い尾を引く。

床面の灰色と混じる。

吸う、吐く、吸う、吐く。

遠い、遠い。上半身だけでやっている。

だめだ。失敗した。止めようか。

でも、理性でぐっとこらえる。

ここで諦めてしまってはまた繰り返しだ。

吸う、吐く、吸う、吐く。

床下から、膝から、頭の後ろの方に吐く。吸う。

徐々に足の裏に体重が乗ってくる。

ああ、そうだった。体重を使うんだった。

なんで忘れてしまうのだろう。なんで10分前にできていたことがすぐに逃げていってしまうのだろう。

吸う、吐く、吸う、吐く

だんだん楽になってきた。

体の中を見ているような妄想が生まれる。

体の中は暗黒。

たまにその暗黒の中に黄色と肌色の液体が吹き出している映像を見ることがある。

徐々に体が温まると、顔が消える。

輪郭が消える。

腰が消えてくるとかなり、良い。

本当は足も消えたいけど、そこまでに至ったことはない。

いつか、いつか。


っていうか、いま



ああ、ダメだ。逃げていった。暗黒が逃げていった。

欲だ、欲なんだ。何かをやろうとするといつもこれだ。

驕りなんだ。過信なんだ。


口惜しい。


この馬鹿は一生治らないだろう。

体よりも頭で考える馬鹿。

何度失敗したら気が済むんだ。








ふっと息をつく。

直立する。

だいぶ力が抜けてきた。

また這いよる自意識。これだけの呼吸を繰り返したから相当うるさかったと思う。

気にしていない、と判断。

時間はまだまだ先である。

もっと疲れきってしまわなければ。








今回の作品には原風景がある。

タイル張りの稽古場に、深夜、自分自身がうなだれている光景。

足元が底から寒くて、たった一人で、沈黙の中にいるというだけなのだけれど、

それはテーマとかではない。イメージというのとも微妙に違う。

稽古を続けるうちに脊椎の周りあたりに澱のように少しづつ蓄積されていったものだ。

踊っていると無意識下にそんな風景を、見ている。



見ている、と気がつかないくらい当たり前のように目の前に見ている。






希望でも絶望でもない。意味は持っていない。








※           ※           ※






足元がふらついた。


こんなことは初めてだ。



一歩目を踏み外し、慌てて二歩目を出す。


何故足がこんなに震えるのかわからない。

やはり稽古のしすぎで筋肉が支えきれないのだろうか。


いや、違う。


緊張してるんだ。



本番の暗黒のなかで割合冷静だった。

最初の曲の一音目で動き出すのだが、初めて転びそうになった。


ぶるぶるとつま先が震える。

でもその後の曲が激しくなる部分で体を動かした後はほとんど緊張しなかった。

粒子を、一つ一つ潰すように、嘘の無いように足の裏を踏む。




嘘。




嘘は絶対ダメだ。


アーティストは嘘は付いちゃいけない。


悪いものはいい。善いものは当然いい。

気持ちの良いものも、気持ちの悪いものも、当然すぎるほどいい。

毒も悪も、アーティストは許される。


虚構であるなら、舞台上で人を殺してもいい。犯してもいい。倫理をやぶってもいい。


でも、嘘はだめだ。





偽善は最悪だ。






まだまだ



まだまだ




もっと嘘をつくな。


それを見せられている方は退屈かもしれない。



未熟で。その上馬鹿な自分はいっそ動かない、ということを選択する。

本当に、本当になったら動く。



でも、そこにしかない。


そこにしか、自分の嘘のない時間を見せるすべがない。



そんな程度で作品を作るなと言われたら、大いにその通りだ。

反論の余地もない。




でも逆に僕はそれがないがしろにされている作品を沢山見てきた。

自分も作ってきた。

それだけが許せない。



クソ、クソ、






※                   ※                    ※





本番が終わり、楽屋に倒れ込んだ。


そしてぼんやりと次回作のことを考えながら雑に整理体操をした。


天井のアクリル板にうっすらと自分の姿が映っていた。




つかれた







※                    ※                   ※



衝動にかられた。



記述したい。



夜風に当たり、シャッターのしまった繊維街通りを歩きながら思う。


今日の体験を記述しよう。

きっと虚実入り混じったものになるだろうけれど。

明日はもうすでにバイトが入っているから、たぶんその次の日になるだろう。

でも禁忌のような気がした。

ダンサーがその体験の一部始終をしかも言葉に乗せて書いてしまうことは。

でも、衝動は確固たるものだった。

きっと自分の地盤になるだろうという薄い予感があった。




虚実といっても、言葉で書いた瞬間にそれはもう嘘になるのだ。







だから、何?







書き出しは、短いほうがいい。





しかも、急で、はっとするような、体の感覚に根ざした言葉からが良い。