現在僕はシアターコクーンという劇場でアルバイトをしている。
業務は楽屋付近の雑用と言うことで、
出演者の方やそのご友人の人々とは良く顔を合わせることになった。
最近、演出家の蜷川幸雄が僕の目の前をよく横切る。
意外と背が小さい。
未だに挨拶が出来ない。
会釈しかしたことがない。
蜷川さんは僕の大学3年生までの神様だった。
ビデオで藤原竜也の「ハムレット」を見て演劇の概念、というか
表現の大枠が物凄く広がった。
「ああ、こんなにやっていいのね」
って思った。
その後は自伝やら演出論やら回顧録やらを読み漁った。
ダイナミックだったのだ。
僕が演劇と言うものに関心を持ち始めたとき現在の小劇場界はもう、
極めて小さな世界にとどまっていた。
身近な事柄を微妙な変化で見せる芝居が多かった。
もちろん井上ひさしさんのように、
舞台は庶民の日常でありながらも、
その劇構造自体が普遍的なドラマにつながるような作家もいる。
でもたぶん現在の若い人でそこまでやれてる人は一人もいないと思う。
当時の僕はそれはつまらないなぁと思っていたし、そんな欲求に答えたのが蜷川幸雄の演出だった。
50年100年のスパンではなく、
人間の存在そのものに挑戦していくような
そんなダイナミズムにあこがれた。
そう思って大学では自分で劇作をして演出もした。蜷川さんが作るようなものをやりたいと思った。
でも、うまく行かなかった。
失敗した。
原因を色々突き詰めていくにつれその理由も段々分ってきた。
今では別に小さい世界だろうが大きい世界だろうがあんまり区別しなくなった。
ただ、肩の力は抜かないとダメだなと思った。
僕の年代では身近な事象を描いたほうが有利であることも分った。
本当に大きい物語をやれている若い世代って
柿食う客という劇団だけではないかと思う。
現在は僕の興味は演劇と言う枠そのものも越えて
色んなことに興味を持ち始めている。
蜷川さん一人に心酔していた時期は過ぎているのだ。
だから蜷川さん本人と出会った時、
おこがましくも古い戦友と再開したような気になった。
そして彼はおよそ50年以上もその演劇と共に
わき目も降らずに走り続けて、
そして今も僕のすぐ目の前で
あの僕があこがれた演劇と関わり続けていた。
この人は今までどれだけ多くの批判にさらされていたのだろう。
それでも曲げなかったんだなぁと。
でも、僕の中で小さい物語だろうが大きい物語だろうが区別はなくなっても
やはり自分の作品はダイナミズムを基調としたいと
今でも思っている。
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