2011-12-30

昔の自分の作品を見て

年末年始は久しぶりに家にこもれる。

最近は銀のさらのバイトをしていたから年末年始はほとんど休めなかった。

だから家の大掃除とかも全然手伝えなかった。

今年はやりまくった。

それでなんとなく先日大学時代の友人たちと飲んだときに話が出た、

自分の過去の公演を見てみようと思った。

自分の公演のDVDはいつも見るためにかなり覚悟をしなければ見れなかった。

かなり覚悟をして見てみたとしてもずっと指先が震えていたりして冷静には観察できなかった。



でもまあ、もう何年も経ってるしいい加減ノスタルジックになったりすることもないだろうと思った。

なによりも、自分が、成長していると、思いたい。

ちょっとしたほほ笑みをもって見届けることができる、度量が、そろそろ、

あって欲しいなぁ・・・

いや、あるよ。たくさん経験積んだもの。

今までの俺とは違うんだぜ。

とか思ったり。



まあでも見ても何になるのかって言う話で

そもそも今自分がやっている公演やジャンルとはあんまし関係ないことやってたし、

単に昔を懐かしむだけなら、そんな自分の姿を想像するだけで噴飯ものだ。

自分に対するひいき目線で事実を曲解した自己満足に浸ってしまうなんて最悪だ。

でも見たい自分がいるのは事実だ。

なんで、わたしは、見たいのか。

その欲求の根源には精神的な自慰に走る弱い気持ちが隠れていないか・・





いや、いいよ

いいから見ろよ。



そうだね。



まあ、要は度量広がってないしも成長も大してしていないことがそこまで煩悶してわかったのである。

投げやりな開き直りで、

20歳のときに脚本・主演・照明を担当した「夕鶴」という作品を見た。



(冷静になんか見れないからもう開き直って思ったことを書きます)


ものすごく当たり前の感想なんだけど、若いんだな。

やっぱり。

いま書けといわれたら絶対に書けない脚本だし、できない演技だ。

それはたぶん出演者全員そうだろう。

近年の中大の二劇の人々は飛躍的に演技が巧くなっているし

かつ非常に客観的に自分を見れる人たちがそろっている。

ので、こんな公演はもうないだろうな。

尋常じゃなく不器用な俳優がいないもんな。


まあある種の無神経さがあるんだな。

人の死だったり、狂気だったりにたいする。

そこは殺さなくて良いでしょうというつっこみがどう贔屓目に見てもはいってしまうな。

でも無神経だからこそ生じる投げやりなまでのドライブ感みたいなものは確かにあるんだなぁ。

普通に、正直に書いていたのでは起こらないことが脚本上で起こってるから、

間違ってても浅はかでもひとまず日常ではないテンションに出演者それぞれが

全力でアクセル上げて、突っ込んでいってる。



しかしそれにしても絶望的なくらい荒削りだ。

細かいところの投げ出し方が常軌を逸している。思わずほほえんだよ。あ、ほほ笑みうかべられたじゃん。

演出は何をやっていたんだ空也さん!(文法的に変か)

まあ特に自分が・・・。


うーん、再演したいなぁ。(いつ暇があるんだ)

でもするにあたっては脚本を書き換えなきゃいけないけど、

今の僕にはどうしてもこの無神経さはないなぁ。

つじつま合わせるとか言葉を選びまくってどうにかなる問題じゃないし。この無神経さがないと。肝だよ。



当時の自分が物語の力に狂信的な信頼を寄せていたのがわかる。

ちょっとかなり最近は物語に懐疑的になっていたけど、これはこれでまだ捨て置くべきじゃないな。

作品の力って何なんだろう。

いろんなことを知って冷静になって分別を身につければ身につけるほど

自分の身の丈を知れば知るほど、

どんどん身動きは取れなくなっていくな。

この世界に対する曲解と妄想がなければ創造なんてできないのだろう。

もちろんそれだけだとこういう拙い作品をさらしてしまうのだけれど。


「狂信」

っていうのがけっこうキーワードになってる気がするんだよなぁ。この作品。

これは最近僕もずうっと考えているテーマだし。

でも再演難しいだろうな。みんなもうこの感じ出せない気がするもんな。

ちょっと自己満足に走りそうな気配があるし。



まあ、

俺はこんなこと考えてるほど暇なのかっていう話だ。

ああ、

やることいっぱいあるなあ。

だるーい。

2011-11-24

ハイブリッドとは中途半端のことかな



この間、わが師匠伊藤キム氏の自宅に(毎度のごとく終電を忘れ)とめてもらった翌日、

僕は近場に旅に出た。

本当はバイトを入れていたのだが、そんなんやってられねえと思ったのである。

まあ朝はちゃんと8時30分におきたのだけれど、ふとこう田園都市線で渋谷まで行こうとしたときに思ってしまったんです。



「急行 久喜行き」



久喜・・・



久喜ってどこやねん。


久しぶりに喜ぶと書く久喜・・・・


行ってみようかな。


というわけで僕は11時ごろ久喜に降り立っていた。

久喜ってまあ大宮の近くなんですな。つまり埼玉。

僕は一切埼玉に行ったことがなかったので全然新鮮だった。

そいで何でか知らないけど埼玉の鉄道はシルクロードのローマばりに上の写真、

そう東武動物公園に通じているのです。

これはいってみるしかあるめえと思い僕は東武動物公園にふらりと立ち寄った(このときすでに12時)



しかし


なんか異常に人が少ない。

駅からの徒歩十分くらいの道もそうだし、平日とはいえ来園者が少なすぎるのでは・・

そしてまだ12時にもかかわらず浮かない顔をした家族連れがとぼとぼ帰っていくではないか。

よく見たらみんな東武動物公園から帰る人は浮かない顔をしているじゃないか。


「ハイブリッドレジャーランド 東武動物公園」

これは思わぬお宝の期待に胸が膨らんでくる・・

ようし、意気揚々と出発だ!!!





さて、写真のとおり期待に胸が膨らんでる僕を最初に出迎えたのは

東武動物公園のマスコットキャラクターの「とっぴー君」だよ!


かわいくねえ!!

ちなみにここはとっぴー広場だよ。

なにがあるかって荒れた芝生とトンネルが数点存在していたよ!



ちなみに東武動物公園は入って最初のエリアが遊園地エリアで奥が動物園エリアなんだ!

動物園エリアに行くまでに徒歩15分くらいかかったよ。

そのあいだにあったのは鯉が異常繁殖している池と数人の親子連れだった。


そして動物園エリアでぼくを最初に迎えたのは



「フラミンゴ」


フラミンゴなんだ・・・。いやあ、まあ文句は言わないけど。

あれだよね、たぶん「好きな動物ランキング」があったら

常に8位から13位あたりにランクインしてるもんね。


無難ー。

でも逆にちょっと違和感ー。



さあ気を取り直して

最初の動物園セクション。「猫エリア」

猫科の動物たちが5―6種類いたんだ。

でもそのうちジャガーとイリオモテヤマネコの二種類は「持病の悪化」で死亡してたからゲージは空っぽだったんだ!

それと国内最高齢のベンガルトラがいたよ。人間で言えば100歳だって!

なんかゲージの中をうろうろしてたよ。





あ、お土産やさんがあるぞ。

ちょっと小腹がすいたからチョコレートでもないかな?

うん、

全然ないね。

なんかビッグサイズのぬいぐるみばっかりおいてあるね。

店名を見たら「サバンナ」

なんだろう、たぶん「甘えんな!!」ってことなのかな?厳しいぞ世の中はってことか。




写真は見にくいけどバクの檻ですよ。

でも左下にいるのはリクガメです。

なぜ、この二頭を一緒のセクションに・・・?




さあ、テンションもあがってきました!

鹿がオス同士がちで喧嘩していたり、なんかふくろうが寝たふりしていたりするジャンル不明のエリアを抜け、「動物ふれあいエリア」に到着!

いろいろどうぶつがいるけど、僕はかんがるーエリアを選択。(あとはうさぎとヤギでした。)


やべええ、

カンガルー超怖い。

でけえ。

本当に触れられる位置にまで来てるよ。

え、ていうか柵みたいなの飛び越えてるけどいいのかな?

もうボスカンガルーの威圧がすげえ。

触れ合いっつうか

もうなんかここあいつの「シマ」じゃん。

完全部外者だよ人間。

なんかごめんなさいね。



出ますわ。



あー怖かった。

あ、犬エリアがある。あれ、普通に犬がいる。



「ラブラドールレトリーバー」





そろそろ帰ろうかな。






さあそのときの僕の表情です




最初と比べてみてください。見違えるように晴れやかです。



「ハイブリッドレジャーランド東武動物公園」

これは今度同期のやつらと改めていかなければの超おたからスポットでしたね。

あ、でも二組結婚してるんだよね。もう一組は事実婚だし。


まあ




来てる暇はみんなにないと思う。


PS 最近ピアスをあけました。軟骨に開けたら血がめちゃくちゃでました。でも今は落ち着いてます。

2011-11-17

別れて 猫が来た

なんだか風邪が長びいてる。

というより風邪未満くらいのやつが3日くらい直らない。

最近寒いもんね。

僕には今月たくさん別れがあった。

2年くらいやってたバイト先をやめたし、彼女とも別れたし。

でもうちに猫が来た。

(おそらく)初めての子供であろう母猫と5匹の子猫。

庭にすっかり住みついてしまった。

母はどっぷり溺愛中。

飼い犬(二代目)は控えめな性格のため早くもアイドルの座を奪われてしまった。

父もどっぷり溺愛中。

そういえば父は先日冬用のライダージャケットを勝手に買ってなぜか兄にすぐあげていた。

そして今日二着目がきた。

現在の父の愛車(DUCATI750)もある日突然横付けのトラックから転がってきたんだっけ。


周囲はでも結婚ラッシュだ。

僕のわかれはすべて自分で決断したことだから特に後悔はしていないけど。

島根に旅行に行った際縁結びの神に祈ったことが幸いしたのでしょうか。

僕自身に関しては縁ほどきになってしまったけど。

大学時代のサークル友達やら高校のときの演劇部の同期やらクラスの人やらですわ。

全員同い年なんだよね。

25ってそういう年齢なのかもしれない。

島根では僕は生まれて初めて自分以外の人のために黙々と祈った。

あんな気持ちになったのは初めてだった。

不思議な場所だったなあ。

誰かのために祈るとからだが楽になった。

ふわっとカーテンがあくみたいに明るくなった。

突き詰めれば自分のためにいのっているのだけれど。


あ、稽古の時間だ。

2011-10-11

人間は本質的にアナログであることについて

「芸術はいまある秩序を破壊するエネルギーを持っている」

というのは、舞台人に限らずほとんどの芸術家が自負している事柄であると思う。

特に僕が現在かかわっているコンテンポラリーダンスの世界なんていうのは強いと感じる。

ありとあらゆる枠をはみ出した作品をあえて世に出すこと

それが仕事みたいなもんだからだ。

だけど、

今現在ほとんどのダンサーは国から出る補助金をもらわないと公演ができない状態にある。

つまり、本来秩序として機能する国家からの助成がないと僕たちダンサーは公演できないのである。

本来秩序とは真っ向から反発するであろう力を持つ人々がである。

これは矛盾。

で、当然国から助成金をもらうためには企画書やら何やらは結構しっかりと能書きを書かなきゃいけない。

また、やばすぎることを考えているものは当然許可が下りない。

でも芸術家とは本来そのやばすぎる何かを衝動として抱えている人たちの群れだ。

国からの助成が増えれば公演はやりやすくなるし、場所も増えるし、生活も楽になる。

でも逆に規格外の化け物は生まれにくくなる。

芸術のもつ「牙」は失われていくのだ。






ってよく聞くけどさ。




ほんとかよって思う。




ほんとに芸術は本質的に秩序と反発するもんなのか?



今現存するほとんどの芸術は国がパトロンとなってはじめめて残ってきたのだ。

尾形光琳もモーツァルトもバッハもルーベンスも歌舞伎だってそうだ。

芸術は秩序と反発するけど、秩序の庇護がないと生き残れない。

この矛盾はなんなんだろう。

大体モーツァルトが宮廷音楽家になってからその作品の質が落ちただろうか?

ゴヤは5人の王のもとで宮廷画家を務めた。

王が変わるたびにその身を翻し、立場をかえ、策をめぐらせ、権力にしがみついた。

だけど彼の作品には毒々しい牙があふれかえっている。質だって全然落ちていない。



思うに、芸術が反発するのは常識や秩序と言ったものではない。



つまり、芸術はデジタルと相反するのだ。


芸術は人間のアナログな部分に反応するのだ。



アナログの反対語、デジタルとはものすごくざっくり言ってしまうと



この世の森羅万象すべてを0と1だけで説明しようとする試みである。


システムはデジタルだ。

人間がなんのゆらぎもなく仕事を遂行することを前提としている。


でも芸術は0と1だけでは表現できない何かを観客に訴えかける。

その結果としてシステムの崩壊を促したり、アナログなのにデジタルな生活のなかで汲々とした人間に

一瞬の安らぎや心の昂ぶりを与えている。


でも人間は社会的な動物でもある。

システム無しでは生きられないのが人間である。

だからもしかしたら、双子なのかもしれない。


それと、人間は虚構無しでは生きられないとも僕は思う。

季節ごとに落ちる葉っぱに自身の姿を重ねたりすんのも虚構だ。

道行くいたいけな子供に明るい未来を想像することも虚構だ。

死者の安息を願って地面に石ころを突き立てるのも虚構だ。


舞台上の演者に自分を重ねるのも虚構だ。絵の中に思い出を見るのも、見たこともない作者の息遣いを想像するのも虚構だ。美しい旋律の調べに小鳥のさえずりを想起するのも虚構だ。

そしてそれらすべて虚構には「言葉」が不可欠だ。

言葉が生まれたからうそが生まれた。



芸術には言葉が不可欠なのではないかと最近思う。

芸術の根底には言葉がある。

2011-09-11

最近

なんとなく更新していなかった。

一度途切れてしまうとかなり遠ざかってしまうもので、

これは習い事とかそういうのとも一緒だと思う。

書くと言うこと、

パソコンの前に座ること。外に向けて何かを発信すること。

そこに付きまとう「羞恥」がここ最近かなり高じている。

だから多分更新しなかったんだろう。




いったいなんで、自分の考えていることを、わざわざ、言葉に変換して

そしてブログに書いたりするのだろう。



うーん、違うな。

そういう紋切り型の部分に僕は羞恥を感じているわけじゃないな。



価値だ。

この、文章の、価値が問題なんだ。

自分の内面うんぬんじゃないな。

対外的な価値、このブログの価値が良くわからないからちょっと戸惑っているんだ。

自分でこれは価値があるって思えたらいいジャンなんてことはありえない。

自分ひとりしか見ないような日記でない限りはそんなことはありえない。

発信していると言うことはどんなに巧妙に隠そうとそこには自己顕示欲と自尊心がある。

いくら言葉でうめたって無理だ。

「無心で書きました」なんていうのは嘘だ。

たにんが認めないと、読まれないと絶対に成立しない。

文章はシュレディンガーの猫か。

何を言ってる。

すると

誰もよんでいなければ僕は何もかかないのか。

うーん、それも違うな。

極端な論理はだめだな。

偽悪だな。いや、そんな格好いいもんじゃないか。単なる見栄だ。



うーん、、なんか書こうか。

2011-04-18

旅記

この間、横浜八景島シーパラダイスに行ってきた。

でも印象に残ったのはそこまでの道のり。

何線だか忘れたけど横浜から八景島前まで通じるローカル線の

その時間がとても新鮮であった。


その電車はモノレール方式。

この日は平日だったのでほとんど人もいない。乗客は水族館に行く若いカップルか

病院にいくお年寄りか。

人がまばらなホームには海からたどり着いた風が大量に吹き抜けていた。

暖かくもないし寒すぎもない。

でも確実に窓の向こうの青空から吹いてきたんだと思った。

観葉植物のような防砂林の無効に4分の一くらい海。そんでその上は青空。



快晴。



電車はゆっくりと進む。



海辺の町がすきなのはたぶんずっとまえからだ。

といってもヴェネチアとかハワイとかああいうのではない。

荷物を運ぶための貨物船と外国語でかかれたコンテナがあるようなそんな町だ。

あやうくあぶない刑事のラストシーンがはじまりそうなああいうなんかバタ臭い感じの空気だ。

外観よりも何よりも前に「必要」があって作り上げられた景色だからだろうか。

効率って言うのとも違うし、何だろう、無意識が何層にも積み重なって

そうやって一つ一つはめ込まれてきた景色と言うのだろうか。


オフィスビルと、並木道と、白いバンと、タクシー

人は歩かない。

車を使う。

砂浜は何処にもない。

海は硬いコンクリートでどこもかしこもエッヂを区切られている。

垂れ流しているのは化学合成物だらけの汚水のはずなのに、ここらのビルにはなんでか

清潔感が漂う。

一日中太陽が当たっていて、なんだか時間が止まったみたいだった。

これで松屋なんかがあれば完璧なのになぁ。


八景島までのローカル線。

強烈な旅情だった。

2011-04-13

色々ありすぎた

三月の末に輝く未来の先輩の公演が終わって

もうなんだか舞台にかかわりたくないなってかなり思っていて

2~3ヶ月くらい世界中を放浪しようかなんて考えていたときに

地震がおきた。



いまだにこの地震をどうとらえてよいのかわからない。

何かはするべきなんだろうとは思いつつ、何もやらずに、ずっと、バイトをしている。

僕は寄付金とか全然していないし、現地にボランティアに行ったわけでもない。

最初、地震が起きた当初はボランティアの人々がむしろスキルがない場合には邪魔になってるって聞いた。

そうだろうと思った。

それは結構僕の中で強力な言い訳になっていて、それ以上自分が何かするって言うことは考えなかった。

でもこの間先輩と話していて

もうすでに被災地でバイトがあるそうだ。

送られてくる大量の支援物資の仕分けのバイトで、三食付いて日当1万。

たしかにこのバイトは何のスキルもなくてもできる。ただただ人数が欲しい仕事だ。

ぼくは揺らいだ。



ボランティアは邪魔だから行かなくていいっていういいわけが揺らいだ。

つまり僕は結局何もしたくない自分に直面した。

言い訳をべりっとはがされた。

隠されてた怠惰な自分が現れた。


けれど何も僕はしていない。


善意が怖い。

善意は怖い。

「ひとつになろう日本」ってメッセージは何か違う気がする。

なんだかはわからないけど、なんかひっかかる。

僕が隠れ蓑にしていた言い訳に色や質がとてもよく似た、もっともっと巨大な何かとつながってる気がする。

ものすごく大事なものをとても安易に隠してしまう巨大な力があるきがする。


僕が一番怖い、もの。

すたこらさっさと世を捨てたくなる。

なんなんだろう。いったい何なんだろう。

自分の中には無駄な知識ばかりがあって全然言葉がないなって最近思う。


この期に及んで自分のことしか考えていない。

もし僕がもっとすごいダンサーだったら、つまり被災地で公演することで何か意味があるダンサーだったら、

いや、あんまりそれは関係ないか。

ようは結果ではなくやるかやらないかだ。やることに意味がある。

自分を強く規定できる何かをもてないから、驚くほど僕には言葉が少なく知識が多い。

自分を規定できない人間はすべてに現実感がもてない。

つまりモラルが決定的に欠けてる。

あー、憂鬱だ。


毎日をちょっとずつやることのエネルギーしか今はない。

掃除をしたり、犬の散歩に行ったり、服を買ったり、彼女と遊んだり、空を見たり、バイトしたり、美術館に行ったり、朝のにおいをかいだり、ジャンパーを着るかジャケットにするか悩んだり、傘を忘れたり。


世界が進む。

2011-02-28

公演が終わり

昨日でようやく輝く未来の公演が終わった。

僕が所属していたカンパニーはこれにて解散となり、来年からはフリーになる。

ここ数ヶ月間、今思い返してもなんとも不甲斐ないなぁと思うことがめちゃくちゃある。

ひーひーというかふーふーというか

なんかそれすらならないで呆然となっていたような感じだった。

自分はやっぱりちょっと作品を作るって事に関して甘く見ていた部分があって

自分の中にはこんなに何もないのか!ってびっくりすることの連続。


作品はひねり出すものなんだって今は思う。

何もないんじゃなくて

何かを自分で探して、こねくり回して、発酵させて

宝の山が埋まった部屋を見つけるような感覚で作品を探してしまっていた。

でも違うよ。

自分で作り出す努力をしてなかった。

あるもんだと思ってた。




終わって、後悔しかない。



でもそれは僕にとってはいい公演だった。

2011-01-06

新しい年

新年明けましておめでとうございます。

正月は二日しかバイトに休みがなくてがなくて元旦だろうがバリバリにバイトしていた。

基本的に配達エリアが新宿と千代田区だから仕事納めと仕事始め以外はそこまで混まない。

千代田区なんて本当に住んでいる人少ないんだなって思う。

いつもは業者やサラリーマンなどでひき殺したくなるような人手なのに

ぜんっぜんいない。スピード出し放題。

正月の麹町は配達業者の無法地帯である。



明日からいよいよ作品稽古が始まる。

今日は休んで森で踊って体を引き戻していた。

でも意外にもそこまでなまっていないことに気づく。

これはね、たぶん年末に部屋の掃除をきちっとしたからだよ。

いや絶対関係あるよ。

今年は本当にいろんなものを捨てた。

特に服。

「これ着ないよなぁ・・でも夏にあれと合わせたら・・でもなんかまたセンスが変わるかもだし・・
・・・うーん、寝巻きなら?あ、稽古着にしようかな」

っていう当確線上のやつらを

全部捨てた。

だって数えたら稽古着30着あったよ。どんだけ温情采配だ。

たんすが汚いとっつーか整理ができてないと現状の自分の把握ができない。

「たぶん俺にはこんなビッグな切り札があったはずだ」

なんていつも思って目の前の現実を甘く見る。

実際にはそんなものないのだ。

自分には何もないのがわかれば金を出したり身を削ったり恥をかいたりして、

つまり何らかの犠牲を払って

その補填を新たにひねり出そうとする努力をする。

そういうのが重要なんだなって思う。

逃げ道作るような隙を作っちゃだめなんだな。


単なる掃除なのに

異様に大仰な文章になった。



去年のベスト小説は山田詠美の「学問」だなぁ。

シリーズで言えば花村満月の「王国記」シリーズだ。

もう去年の9月あたりから花村満月しか読んでないよ。

落ち込んだりすることもあるけど。

もう離れられん。

早く新刊でないかな。