年末年始は久しぶりに家にこもれる。
最近は銀のさらのバイトをしていたから年末年始はほとんど休めなかった。
だから家の大掃除とかも全然手伝えなかった。
今年はやりまくった。
それでなんとなく先日大学時代の友人たちと飲んだときに話が出た、
自分の過去の公演を見てみようと思った。
自分の公演のDVDはいつも見るためにかなり覚悟をしなければ見れなかった。
かなり覚悟をして見てみたとしてもずっと指先が震えていたりして冷静には観察できなかった。
でもまあ、もう何年も経ってるしいい加減ノスタルジックになったりすることもないだろうと思った。
なによりも、自分が、成長していると、思いたい。
ちょっとしたほほ笑みをもって見届けることができる、度量が、そろそろ、
あって欲しいなぁ・・・
いや、あるよ。たくさん経験積んだもの。
今までの俺とは違うんだぜ。
とか思ったり。
まあでも見ても何になるのかって言う話で
そもそも今自分がやっている公演やジャンルとはあんまし関係ないことやってたし、
単に昔を懐かしむだけなら、そんな自分の姿を想像するだけで噴飯ものだ。
自分に対するひいき目線で事実を曲解した自己満足に浸ってしまうなんて最悪だ。
でも見たい自分がいるのは事実だ。
なんで、わたしは、見たいのか。
その欲求の根源には精神的な自慰に走る弱い気持ちが隠れていないか・・
いや、いいよ
いいから見ろよ。
そうだね。
まあ、要は度量広がってないしも成長も大してしていないことがそこまで煩悶してわかったのである。
投げやりな開き直りで、
20歳のときに脚本・主演・照明を担当した「夕鶴」という作品を見た。
(冷静になんか見れないからもう開き直って思ったことを書きます)
ものすごく当たり前の感想なんだけど、若いんだな。
やっぱり。
いま書けといわれたら絶対に書けない脚本だし、できない演技だ。
それはたぶん出演者全員そうだろう。
近年の中大の二劇の人々は飛躍的に演技が巧くなっているし
かつ非常に客観的に自分を見れる人たちがそろっている。
ので、こんな公演はもうないだろうな。
尋常じゃなく不器用な俳優がいないもんな。
まあある種の無神経さがあるんだな。
人の死だったり、狂気だったりにたいする。
そこは殺さなくて良いでしょうというつっこみがどう贔屓目に見てもはいってしまうな。
でも無神経だからこそ生じる投げやりなまでのドライブ感みたいなものは確かにあるんだなぁ。
普通に、正直に書いていたのでは起こらないことが脚本上で起こってるから、
間違ってても浅はかでもひとまず日常ではないテンションに出演者それぞれが
全力でアクセル上げて、突っ込んでいってる。
しかしそれにしても絶望的なくらい荒削りだ。
細かいところの投げ出し方が常軌を逸している。思わずほほえんだよ。あ、ほほ笑みうかべられたじゃん。
演出は何をやっていたんだ空也さん!(文法的に変か)
まあ特に自分が・・・。
うーん、再演したいなぁ。(いつ暇があるんだ)
でもするにあたっては脚本を書き換えなきゃいけないけど、
今の僕にはどうしてもこの無神経さはないなぁ。
つじつま合わせるとか言葉を選びまくってどうにかなる問題じゃないし。この無神経さがないと。肝だよ。
当時の自分が物語の力に狂信的な信頼を寄せていたのがわかる。
ちょっとかなり最近は物語に懐疑的になっていたけど、これはこれでまだ捨て置くべきじゃないな。
作品の力って何なんだろう。
いろんなことを知って冷静になって分別を身につければ身につけるほど
自分の身の丈を知れば知るほど、
どんどん身動きは取れなくなっていくな。
この世界に対する曲解と妄想がなければ創造なんてできないのだろう。
もちろんそれだけだとこういう拙い作品をさらしてしまうのだけれど。
「狂信」
っていうのがけっこうキーワードになってる気がするんだよなぁ。この作品。
これは最近僕もずうっと考えているテーマだし。
でも再演難しいだろうな。みんなもうこの感じ出せない気がするもんな。
ちょっと自己満足に走りそうな気配があるし。
まあ、
俺はこんなこと考えてるほど暇なのかっていう話だ。
ああ、
やることいっぱいあるなあ。
だるーい。
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