また下北沢で服を色々購入。(ほぼ全て衝動買い)
今日は休日なのに朝割りと早い時間に起きた。プランは万端だった。
でも,あんまり上手くいかなかった。
意気揚々と電車で読む本を選んでいたら今僕がはまりにはまっている山田詠美が無くてテンション下がって
仕方なく「カミュ全集Ⅱ」(新潮社)を読んでいたら面白くって明大前を通り越してテンション下がって
「ふ,こんな不条理な世界で衣服が一体なんの役に立つんだ」
なんてカミュの世界観に浸っているのに下北沢に立つ自分に呆然としてテンション下がって
そんなこんなで下北沢で服を探していた。
気がついたら白と黒ばっか。
そして時間は午後三時を回っていた。
実は下北沢から帰って図書館に寄ってカラオケにでも行くつもりだった。
「荷物おもーい」
と思ったしお腹すいたしでもそとで食べるのが嫌だから帰ってきた。
なんであんな時間かかったんだろう,優柔不断だからか。
あ,でも優柔不断といえば決断には二つ種類があって
「どちらがより自分にとってプラスか」というのと「どちらが自分にとってマイナスが少ないか」
って言うのの二つあると思う。
で,僕は前者の「プラス」の決断が恐ろしく遅い。
例えば目の前に大好物が二つ並べられて「どちらか一方だけ食べて良い」と言われたら
たぶん1~2時間は悩んでいる。
逆に嫌いな食べ物を並べられたら多分3秒くらいで食べる。
「どっちがおいしいだろう・・・」(食べ物)とか「どっちがためになるだろう・・・」(舞台)
とか「どっちが面白いだろう・・・」(映画もしくはAV)とか
快楽に対して純粋なんだなあ。僕は。(そういえば僕はAVコーナーで一時間半悩んだことがある。ふと集中から開放されて時計を見て絶望した。まあ借りたけど)
自分にとってストレスフルな,嫌な事柄はもう即決してしまう。
コクーンのバイトをやめるときも,「やめよう」と思ってからすぐにもう言った。
まあ九月まではやるんだけど。
すごく急に言ったのでびっくりしていた。
それに関してあまり後悔したことはない。
(プラスの決断に関してはすごく良くある。となりの芝生は青い,という理屈のせいだと思うけど)
転ばぬ先の杖よりも転んだ後の起き上がり方が重要ですよ。
2009-09-06
いかしてる女の子を見た
「いかした女」という言葉を聞かなくなった。
現在ではあんまり珍重されない価値観なのかもしれないし。
どうも80年代(もっと昔か?)のにおいがする。
でも僕は京王井の頭線でそのワードが一番しっくりくる6~7歳の女の子を見た。
最初見たとき,
なんて自分と言う存在をしっかりと持っているような目をした子だろうと思った。
まわりの大人たちと比べても
背筋はしっかりと伸びているし,視線は真っ直ぐに観るべきものを見ていた。
ちょっと説明するのは難しい。
ただ,存在がぼんやりとしていなかったのだ。
輪郭がはっきり見えるというか。
彼女は親子連れで,お母さんは見るからに優しそうな,
「どんな人間でも私は平等に扱いますよ」と言っているような顔をしていた。
地域清掃のボランティアの帰りのようだった。
お母さんは,電車で目の前のつり革に立ったご老人二人組みに席を譲った。
そして娘にも自分と同じようにするように勧めた。
誰が見ても微笑ましい光景だった。微笑ましいというよりも,「みていて安心する」光景だったと思う。
でも,そのとき娘は不思議そうな顔をしてこう言った。
「お母さんは何で席を譲るの?人間には序列があるの?」
彼女は別に電車で立ちたくなくてダダをこねて言ったのでもないし
思いやりが欠如しているのでもないと思う。
純粋に疑問だったのだと思う。
お母さんは慌てて「いいから立ちなさい」といって娘を立たせた。
「いいから立ちなさい」であの子は絶対に納得しないだろう。
君の言うとおり,この世界に住む人間には序列があるのだよ。
「平等」というのは最初からあるものでも他人に求めるものではなく政府が約束してくれるものでもなく
勝ち取るものなんだよ。
人種にも国籍にも,性的な嗜好や病気や身体的な特徴など,
何にも左右されずに「平等」に接することが出来るのは一定以上の高度な教育を受けることが必要だし。
そもそも隣人から隙あらば食料を奪う必要の無い安心した暮らしが大前提にある。
いつからか日本では「平等」は勝ち取るものではなく
「そもそも元から存在するもの」という意識が出来た。
そんな国がこの地球上でいったいどれだけあるのだろうか。
「誰にでも優しく,平等に人と接する」という人間が存在するといことは
実はこの世界がとてつもなく不平等だからなんだよ。
現在ではあんまり珍重されない価値観なのかもしれないし。
どうも80年代(もっと昔か?)のにおいがする。
でも僕は京王井の頭線でそのワードが一番しっくりくる6~7歳の女の子を見た。
最初見たとき,
なんて自分と言う存在をしっかりと持っているような目をした子だろうと思った。
まわりの大人たちと比べても
背筋はしっかりと伸びているし,視線は真っ直ぐに観るべきものを見ていた。
ちょっと説明するのは難しい。
ただ,存在がぼんやりとしていなかったのだ。
輪郭がはっきり見えるというか。
彼女は親子連れで,お母さんは見るからに優しそうな,
「どんな人間でも私は平等に扱いますよ」と言っているような顔をしていた。
地域清掃のボランティアの帰りのようだった。
お母さんは,電車で目の前のつり革に立ったご老人二人組みに席を譲った。
そして娘にも自分と同じようにするように勧めた。
誰が見ても微笑ましい光景だった。微笑ましいというよりも,「みていて安心する」光景だったと思う。
でも,そのとき娘は不思議そうな顔をしてこう言った。
「お母さんは何で席を譲るの?人間には序列があるの?」
彼女は別に電車で立ちたくなくてダダをこねて言ったのでもないし
思いやりが欠如しているのでもないと思う。
純粋に疑問だったのだと思う。
お母さんは慌てて「いいから立ちなさい」といって娘を立たせた。
「いいから立ちなさい」であの子は絶対に納得しないだろう。
君の言うとおり,この世界に住む人間には序列があるのだよ。
「平等」というのは最初からあるものでも他人に求めるものではなく政府が約束してくれるものでもなく
勝ち取るものなんだよ。
人種にも国籍にも,性的な嗜好や病気や身体的な特徴など,
何にも左右されずに「平等」に接することが出来るのは一定以上の高度な教育を受けることが必要だし。
そもそも隣人から隙あらば食料を奪う必要の無い安心した暮らしが大前提にある。
いつからか日本では「平等」は勝ち取るものではなく
「そもそも元から存在するもの」という意識が出来た。
そんな国がこの地球上でいったいどれだけあるのだろうか。
「誰にでも優しく,平等に人と接する」という人間が存在するといことは
実はこの世界がとてつもなく不平等だからなんだよ。
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