5月から始まる本番に向けて、今週から毎週末は京都にいる。
せっかく気候も穏やかになってきたし、新幹線の回数券はあらかじめもらっているので一日延泊して
京都を歩いてみる。
といっても全然一日では回れないから、僕が今日歩いたのは地図で言う右上半分くらいだ。
出発点は京都造形大学の近くの民宿(?)
銀閣寺のそばにある。哲学の道というところのふもと辺りにある。
気温も本当にちょうど良かったし、晴れていたし、最高の散歩日和だった。
桜の季節は少し過ぎてしまっていたが、平日だというのに観光客は朝から結構居た。
川べには必ず桜の木が植えられていて、散り気味とはいっても静かで美しい景色だった。
僕には目的の場所があった。
「かねよ」という老舗のうなぎやさんだ。
いま最高にはまっている小説家、花村萬月氏の「百万遍 古都恋情」に出てきていたのでぜひいってみたいと思っていたのだ。
電車やバスに乗れば早いが、そもそもチェックアウトが10時で開店が11時30分だから早く行っても意味がない。
それに僕は徒歩が大好きなので河原町にある「かねよ」まで歩いていくことにした。
簡単なのはいいけれど、大きな道なんか通っていってもつまらないので裏道を行く。
割と信用ならない僕の方向感覚だが、時間もあるし、着かなかったら着かなかったでその場でであった面白いものを堪能しようと思っていた。
案の定、古都は魅惑的な路地がたくさんある。
階段がいいよね。両脇を民家で挟まれた狭い階段がいっぱいある。その先に桜の木がある。
ていうか普通の民家を見てるだけでも割と楽しめてしまうのだから、味のある家屋が並ぶ京都は僕は一人でも全然退屈しない。
最初にぶわっと道順は決めるけれど往々にして他の路地に吸い寄せられてまったく違う方向に行ってしまう。
迷っても気にしない。どっかでまた戻ればいいのだ。
とにかく、進んでみなければわからないのだ。
そんなこんなで着物の櫛飾りを専門に扱っている店の家の周りをぐるっとしていたら
神社に出た。
神社といおうか、
うーん、ちょっと形容しにくい場所に出た。
なんというか「神社の墓場」だと僕は思った。
情景を説明すると、その山の中には大小さまざまな鳥居があった。
稲荷様だったり、その他の神様をまつっている社もあった。
でもそのほとんどが打ち捨てられたように荒廃し、薄汚れていた。
そこここに「奉納某様」という石碑がまるで墓石のように林立していた。
なんでこんなにもたくさんの社があるのかよくわからないが、それをそのまま放っておくのもよくわからない。
中でもひとつの稲荷様の前に立ったときの違和感はなんとも強烈で、狐憑きにでもなりはしないかとひやひやした。
沈黙があった。
静寂ではない。沈黙だ。
言葉を持つものが口をつぐんでいる気配のようなものがあたりに漂っていたのだ。
後で調べると、僕が上っていたのは吉田山という場所だった。
あの有名な吉田神社があるところである。
でもその吉田神社のもっと上のほうにこんな場所があったなんて。
吉田神社は名声に負けない空気をかもし出す場所だった。
鳥居をくぐった瞬間から、ぐぐっと精神を緊張させる空気。
計算しつくされたバランスの砂、門、桜、石畳。
自然は最高の芸術だと僕は思うけれども、この人工にはやはり歴史がある。
剣道の達人の型を見ているような無駄のない、それでいて無限に広がる世界。
人は庭で宇宙を表現した。
究極の人工だ。
人は形のないものをつかもうとして周りの物に手を加える。
吉田神社のようにひっそりと、確実にゆるぎなく「在る」ことができるものもあれば
神社の墓場と僕が命名した場所のようにゆがんだ形で「在らされてしまう」こともある。
そのどちらも人が手を加えたものである。
あのいびつな空間に僕は人のこぼれ落ちてしまった悪意を感じ取れるような気がする。
ちょっと長くなるので、続きはまた今度書きます。