「芸術はいまある秩序を破壊するエネルギーを持っている」
というのは、舞台人に限らずほとんどの芸術家が自負している事柄であると思う。
特に僕が現在かかわっているコンテンポラリーダンスの世界なんていうのは強いと感じる。
ありとあらゆる枠をはみ出した作品をあえて世に出すこと
それが仕事みたいなもんだからだ。
だけど、
今現在ほとんどのダンサーは国から出る補助金をもらわないと公演ができない状態にある。
つまり、本来秩序として機能する国家からの助成がないと僕たちダンサーは公演できないのである。
本来秩序とは真っ向から反発するであろう力を持つ人々がである。
これは矛盾。
で、当然国から助成金をもらうためには企画書やら何やらは結構しっかりと能書きを書かなきゃいけない。
また、やばすぎることを考えているものは当然許可が下りない。
でも芸術家とは本来そのやばすぎる何かを衝動として抱えている人たちの群れだ。
国からの助成が増えれば公演はやりやすくなるし、場所も増えるし、生活も楽になる。
でも逆に規格外の化け物は生まれにくくなる。
芸術のもつ「牙」は失われていくのだ。
ってよく聞くけどさ。
ほんとかよって思う。
ほんとに芸術は本質的に秩序と反発するもんなのか?
今現存するほとんどの芸術は国がパトロンとなってはじめめて残ってきたのだ。
尾形光琳もモーツァルトもバッハもルーベンスも歌舞伎だってそうだ。
芸術は秩序と反発するけど、秩序の庇護がないと生き残れない。
この矛盾はなんなんだろう。
大体モーツァルトが宮廷音楽家になってからその作品の質が落ちただろうか?
ゴヤは5人の王のもとで宮廷画家を務めた。
王が変わるたびにその身を翻し、立場をかえ、策をめぐらせ、権力にしがみついた。
だけど彼の作品には毒々しい牙があふれかえっている。質だって全然落ちていない。
思うに、芸術が反発するのは常識や秩序と言ったものではない。
つまり、芸術はデジタルと相反するのだ。
芸術は人間のアナログな部分に反応するのだ。
アナログの反対語、デジタルとはものすごくざっくり言ってしまうと
この世の森羅万象すべてを0と1だけで説明しようとする試みである。
システムはデジタルだ。
人間がなんのゆらぎもなく仕事を遂行することを前提としている。
でも芸術は0と1だけでは表現できない何かを観客に訴えかける。
その結果としてシステムの崩壊を促したり、アナログなのにデジタルな生活のなかで汲々とした人間に
一瞬の安らぎや心の昂ぶりを与えている。
でも人間は社会的な動物でもある。
システム無しでは生きられないのが人間である。
だからもしかしたら、双子なのかもしれない。
それと、人間は虚構無しでは生きられないとも僕は思う。
季節ごとに落ちる葉っぱに自身の姿を重ねたりすんのも虚構だ。
道行くいたいけな子供に明るい未来を想像することも虚構だ。
死者の安息を願って地面に石ころを突き立てるのも虚構だ。
舞台上の演者に自分を重ねるのも虚構だ。絵の中に思い出を見るのも、見たこともない作者の息遣いを想像するのも虚構だ。美しい旋律の調べに小鳥のさえずりを想起するのも虚構だ。
そしてそれらすべて虚構には「言葉」が不可欠だ。
言葉が生まれたからうそが生まれた。
芸術には言葉が不可欠なのではないかと最近思う。
芸術の根底には言葉がある。