2012-02-27

地方での本番がありました

今日、鳥取から帰ってきた。

2月4日には仙台で今参加しているダンスの本番があり、

先週は3月に本番がある京都にいってきた。(キムさんのアシスタント)

忙しい、という意識はないんだけどまあ忙しい。



いま参加しているのはダンスフェスティバルみたいなもんで、

大体一都市に2~3個ダンス公演をしにいく。

僕たちのチームは鳥取と仙台と東京を回る。

だからもうあとは東京だけ。


僕のチームの作品は評判が悪いらしく、やっているほうとしてもほとんど手ごたえがないのでまあ悪いこと言われてももう黙って聞くしかない。

作品がぎりぎりまで決まらなくてかなりぶっつけ本番なことが多い。

それが主な原因だと思っていたけど、考えれば結構いままでぶっつけなことは多かったのにな。

それでも割りといけることが多かったからなんだかやるせない感じだ。

自分を、舞台上で生かしたい。

ただそれだけを念じて舞台をやってきたから、この徒労感は悔しすぎる。

言い訳とうらみつらみとが打ち上げではき出せなくて下痢をした。

自分にダメージを向かわせた。

無様だ。

でもやりたいな。生きたいな。切実だな。

馬鹿は馬鹿なりにやってやろうと思う。



五月までダンスの予定が入っていて、

その後は東北に一人旅をしようと思ってる。

巡回講演で初めて訪れた仙台と、冨樫君がすんでいる山形の空気が忘れられない。

宿も、目的地も、日数も何も決めずに、新幹線は使わず、時には野宿もいとわない

そんなたびに出ようと画策中です。


最終目的地は山形の冨樫君の家だ(うろ覚え)

(たぶん)月曜日あたりに出発して(たぶんその週の)土曜日の朝あたりに

冨樫君の家にたどり着く。

主に徒歩で。

冨樫君には言ってないけど。

2012-01-06

初夢

あけましておめでとうございます。

とっても更新数は少ないのだけれど、このブログ2008年からやってるんだとはじめて気がついた。

最近は結構、近過去の記憶の順序が曖昧になっていることに気がつく。

僕がいま惹かれて止まない小説家である花村萬月に出会ったのはてっきり去年だと思っていた。

でも過去のブログ読んでいると一昨年のことだったらしい。

すでに一年越しのつきあいだったんだなぁ。

人間なんて成長しないもんだなぁ。

よしもとばななにはまったのはいつだっけ?

花村萬月よりあとだっけ前だっけ?書いてないから良くわからない。

マイルス・デイビスを聴きはじめたのはいつだっけ?

ロバート・ジョンソンを聴きはじめたのはいつだっけ?



音楽の趣味が変わってきたなあ。

でも吉井和哉はかわらずにずーーーーっと聞いている。


好きなものって人それぞれ違うけど、いったい何がその人にヒットするのだろう?

出会う時期によっても多分接した感触ってまったく違うもんだし。

僕はよく覚えているのだけど、僕は中学生のころに一度花村萬月に触れているのだ。

当時僕は図書館で児童書ばっかし読んでいるのが恥ずかしくなって、

大人の書棚から始めて本を借りてみたのだ。

全然名前とか知らないからほんっと偶然なんだけど花村萬月を何故か借りてみた。

で、そのときは「なんだこれ」って思って強がりも続かずに途中であまりのつまらなさにやめてしまった。



何か小難しい独り言をうだうだしゃべってセックスして暴力して終わりってなんだそれって。

大人って良くわからないなって思った。



それが今じゃ・・。花村萬月なしではつまらなくて仕方ない。




思うに、人がなにかに惹かれるときは、そのなにかのリズムに淫してしまうのではないだろうか。

音楽はもちろん。小説にも言葉のリズムがあって、絵画にもリズムがある。

俳優にもその人独特のリズムがあるし。服とか、ダンスにも顕著ですね。

日々生きてる人それぞれのリズムがあって、なんとなく惹かれてしまう気持ちの根底には

リズムがちょうどハモってしまうような瞬間があるのではないだろうか。

友達とかもそうだもんね。

心地よいリズムってのが人それぞれ存在するもんだ。

たぶん生きていくうえでの僕のリズムみたいなものが中学生の時とは違っているんだろう。




最近のリズムというわけではないが

小説の神様は小川国男だと思う。

知らない人も多いでしょう。いわゆる内向の世代の一人と言われる小説家ですね。

期待して読むと死ぬほど地味で何も起こらないのでがっかりするかも。


でも、もう、なんか、すさまじい。


神です。


一見ただ平易なだけだけれど、こんな小説家は日本史上僕は見たことがない。

圧倒的です。

「小説」というものが本当に本当に好きでたまらない人は読んでみてください。



初夢に、阿部元総理が出てきました。

孤児院の院長やってました。


今年も皆様にとって良い年でありますように。

2011-12-30

昔の自分の作品を見て

年末年始は久しぶりに家にこもれる。

最近は銀のさらのバイトをしていたから年末年始はほとんど休めなかった。

だから家の大掃除とかも全然手伝えなかった。

今年はやりまくった。

それでなんとなく先日大学時代の友人たちと飲んだときに話が出た、

自分の過去の公演を見てみようと思った。

自分の公演のDVDはいつも見るためにかなり覚悟をしなければ見れなかった。

かなり覚悟をして見てみたとしてもずっと指先が震えていたりして冷静には観察できなかった。



でもまあ、もう何年も経ってるしいい加減ノスタルジックになったりすることもないだろうと思った。

なによりも、自分が、成長していると、思いたい。

ちょっとしたほほ笑みをもって見届けることができる、度量が、そろそろ、

あって欲しいなぁ・・・

いや、あるよ。たくさん経験積んだもの。

今までの俺とは違うんだぜ。

とか思ったり。



まあでも見ても何になるのかって言う話で

そもそも今自分がやっている公演やジャンルとはあんまし関係ないことやってたし、

単に昔を懐かしむだけなら、そんな自分の姿を想像するだけで噴飯ものだ。

自分に対するひいき目線で事実を曲解した自己満足に浸ってしまうなんて最悪だ。

でも見たい自分がいるのは事実だ。

なんで、わたしは、見たいのか。

その欲求の根源には精神的な自慰に走る弱い気持ちが隠れていないか・・





いや、いいよ

いいから見ろよ。



そうだね。



まあ、要は度量広がってないしも成長も大してしていないことがそこまで煩悶してわかったのである。

投げやりな開き直りで、

20歳のときに脚本・主演・照明を担当した「夕鶴」という作品を見た。



(冷静になんか見れないからもう開き直って思ったことを書きます)


ものすごく当たり前の感想なんだけど、若いんだな。

やっぱり。

いま書けといわれたら絶対に書けない脚本だし、できない演技だ。

それはたぶん出演者全員そうだろう。

近年の中大の二劇の人々は飛躍的に演技が巧くなっているし

かつ非常に客観的に自分を見れる人たちがそろっている。

ので、こんな公演はもうないだろうな。

尋常じゃなく不器用な俳優がいないもんな。


まあある種の無神経さがあるんだな。

人の死だったり、狂気だったりにたいする。

そこは殺さなくて良いでしょうというつっこみがどう贔屓目に見てもはいってしまうな。

でも無神経だからこそ生じる投げやりなまでのドライブ感みたいなものは確かにあるんだなぁ。

普通に、正直に書いていたのでは起こらないことが脚本上で起こってるから、

間違ってても浅はかでもひとまず日常ではないテンションに出演者それぞれが

全力でアクセル上げて、突っ込んでいってる。



しかしそれにしても絶望的なくらい荒削りだ。

細かいところの投げ出し方が常軌を逸している。思わずほほえんだよ。あ、ほほ笑みうかべられたじゃん。

演出は何をやっていたんだ空也さん!(文法的に変か)

まあ特に自分が・・・。


うーん、再演したいなぁ。(いつ暇があるんだ)

でもするにあたっては脚本を書き換えなきゃいけないけど、

今の僕にはどうしてもこの無神経さはないなぁ。

つじつま合わせるとか言葉を選びまくってどうにかなる問題じゃないし。この無神経さがないと。肝だよ。



当時の自分が物語の力に狂信的な信頼を寄せていたのがわかる。

ちょっとかなり最近は物語に懐疑的になっていたけど、これはこれでまだ捨て置くべきじゃないな。

作品の力って何なんだろう。

いろんなことを知って冷静になって分別を身につければ身につけるほど

自分の身の丈を知れば知るほど、

どんどん身動きは取れなくなっていくな。

この世界に対する曲解と妄想がなければ創造なんてできないのだろう。

もちろんそれだけだとこういう拙い作品をさらしてしまうのだけれど。


「狂信」

っていうのがけっこうキーワードになってる気がするんだよなぁ。この作品。

これは最近僕もずうっと考えているテーマだし。

でも再演難しいだろうな。みんなもうこの感じ出せない気がするもんな。

ちょっと自己満足に走りそうな気配があるし。



まあ、

俺はこんなこと考えてるほど暇なのかっていう話だ。

ああ、

やることいっぱいあるなあ。

だるーい。

2011-11-24

ハイブリッドとは中途半端のことかな



この間、わが師匠伊藤キム氏の自宅に(毎度のごとく終電を忘れ)とめてもらった翌日、

僕は近場に旅に出た。

本当はバイトを入れていたのだが、そんなんやってられねえと思ったのである。

まあ朝はちゃんと8時30分におきたのだけれど、ふとこう田園都市線で渋谷まで行こうとしたときに思ってしまったんです。



「急行 久喜行き」



久喜・・・



久喜ってどこやねん。


久しぶりに喜ぶと書く久喜・・・・


行ってみようかな。


というわけで僕は11時ごろ久喜に降り立っていた。

久喜ってまあ大宮の近くなんですな。つまり埼玉。

僕は一切埼玉に行ったことがなかったので全然新鮮だった。

そいで何でか知らないけど埼玉の鉄道はシルクロードのローマばりに上の写真、

そう東武動物公園に通じているのです。

これはいってみるしかあるめえと思い僕は東武動物公園にふらりと立ち寄った(このときすでに12時)



しかし


なんか異常に人が少ない。

駅からの徒歩十分くらいの道もそうだし、平日とはいえ来園者が少なすぎるのでは・・

そしてまだ12時にもかかわらず浮かない顔をした家族連れがとぼとぼ帰っていくではないか。

よく見たらみんな東武動物公園から帰る人は浮かない顔をしているじゃないか。


「ハイブリッドレジャーランド 東武動物公園」

これは思わぬお宝の期待に胸が膨らんでくる・・

ようし、意気揚々と出発だ!!!





さて、写真のとおり期待に胸が膨らんでる僕を最初に出迎えたのは

東武動物公園のマスコットキャラクターの「とっぴー君」だよ!


かわいくねえ!!

ちなみにここはとっぴー広場だよ。

なにがあるかって荒れた芝生とトンネルが数点存在していたよ!



ちなみに東武動物公園は入って最初のエリアが遊園地エリアで奥が動物園エリアなんだ!

動物園エリアに行くまでに徒歩15分くらいかかったよ。

そのあいだにあったのは鯉が異常繁殖している池と数人の親子連れだった。


そして動物園エリアでぼくを最初に迎えたのは



「フラミンゴ」


フラミンゴなんだ・・・。いやあ、まあ文句は言わないけど。

あれだよね、たぶん「好きな動物ランキング」があったら

常に8位から13位あたりにランクインしてるもんね。


無難ー。

でも逆にちょっと違和感ー。



さあ気を取り直して

最初の動物園セクション。「猫エリア」

猫科の動物たちが5―6種類いたんだ。

でもそのうちジャガーとイリオモテヤマネコの二種類は「持病の悪化」で死亡してたからゲージは空っぽだったんだ!

それと国内最高齢のベンガルトラがいたよ。人間で言えば100歳だって!

なんかゲージの中をうろうろしてたよ。





あ、お土産やさんがあるぞ。

ちょっと小腹がすいたからチョコレートでもないかな?

うん、

全然ないね。

なんかビッグサイズのぬいぐるみばっかりおいてあるね。

店名を見たら「サバンナ」

なんだろう、たぶん「甘えんな!!」ってことなのかな?厳しいぞ世の中はってことか。




写真は見にくいけどバクの檻ですよ。

でも左下にいるのはリクガメです。

なぜ、この二頭を一緒のセクションに・・・?




さあ、テンションもあがってきました!

鹿がオス同士がちで喧嘩していたり、なんかふくろうが寝たふりしていたりするジャンル不明のエリアを抜け、「動物ふれあいエリア」に到着!

いろいろどうぶつがいるけど、僕はかんがるーエリアを選択。(あとはうさぎとヤギでした。)


やべええ、

カンガルー超怖い。

でけえ。

本当に触れられる位置にまで来てるよ。

え、ていうか柵みたいなの飛び越えてるけどいいのかな?

もうボスカンガルーの威圧がすげえ。

触れ合いっつうか

もうなんかここあいつの「シマ」じゃん。

完全部外者だよ人間。

なんかごめんなさいね。



出ますわ。



あー怖かった。

あ、犬エリアがある。あれ、普通に犬がいる。



「ラブラドールレトリーバー」





そろそろ帰ろうかな。






さあそのときの僕の表情です




最初と比べてみてください。見違えるように晴れやかです。



「ハイブリッドレジャーランド東武動物公園」

これは今度同期のやつらと改めていかなければの超おたからスポットでしたね。

あ、でも二組結婚してるんだよね。もう一組は事実婚だし。


まあ




来てる暇はみんなにないと思う。


PS 最近ピアスをあけました。軟骨に開けたら血がめちゃくちゃでました。でも今は落ち着いてます。

2011-11-17

別れて 猫が来た

なんだか風邪が長びいてる。

というより風邪未満くらいのやつが3日くらい直らない。

最近寒いもんね。

僕には今月たくさん別れがあった。

2年くらいやってたバイト先をやめたし、彼女とも別れたし。

でもうちに猫が来た。

(おそらく)初めての子供であろう母猫と5匹の子猫。

庭にすっかり住みついてしまった。

母はどっぷり溺愛中。

飼い犬(二代目)は控えめな性格のため早くもアイドルの座を奪われてしまった。

父もどっぷり溺愛中。

そういえば父は先日冬用のライダージャケットを勝手に買ってなぜか兄にすぐあげていた。

そして今日二着目がきた。

現在の父の愛車(DUCATI750)もある日突然横付けのトラックから転がってきたんだっけ。


周囲はでも結婚ラッシュだ。

僕のわかれはすべて自分で決断したことだから特に後悔はしていないけど。

島根に旅行に行った際縁結びの神に祈ったことが幸いしたのでしょうか。

僕自身に関しては縁ほどきになってしまったけど。

大学時代のサークル友達やら高校のときの演劇部の同期やらクラスの人やらですわ。

全員同い年なんだよね。

25ってそういう年齢なのかもしれない。

島根では僕は生まれて初めて自分以外の人のために黙々と祈った。

あんな気持ちになったのは初めてだった。

不思議な場所だったなあ。

誰かのために祈るとからだが楽になった。

ふわっとカーテンがあくみたいに明るくなった。

突き詰めれば自分のためにいのっているのだけれど。


あ、稽古の時間だ。

2011-10-11

人間は本質的にアナログであることについて

「芸術はいまある秩序を破壊するエネルギーを持っている」

というのは、舞台人に限らずほとんどの芸術家が自負している事柄であると思う。

特に僕が現在かかわっているコンテンポラリーダンスの世界なんていうのは強いと感じる。

ありとあらゆる枠をはみ出した作品をあえて世に出すこと

それが仕事みたいなもんだからだ。

だけど、

今現在ほとんどのダンサーは国から出る補助金をもらわないと公演ができない状態にある。

つまり、本来秩序として機能する国家からの助成がないと僕たちダンサーは公演できないのである。

本来秩序とは真っ向から反発するであろう力を持つ人々がである。

これは矛盾。

で、当然国から助成金をもらうためには企画書やら何やらは結構しっかりと能書きを書かなきゃいけない。

また、やばすぎることを考えているものは当然許可が下りない。

でも芸術家とは本来そのやばすぎる何かを衝動として抱えている人たちの群れだ。

国からの助成が増えれば公演はやりやすくなるし、場所も増えるし、生活も楽になる。

でも逆に規格外の化け物は生まれにくくなる。

芸術のもつ「牙」は失われていくのだ。






ってよく聞くけどさ。




ほんとかよって思う。




ほんとに芸術は本質的に秩序と反発するもんなのか?



今現存するほとんどの芸術は国がパトロンとなってはじめめて残ってきたのだ。

尾形光琳もモーツァルトもバッハもルーベンスも歌舞伎だってそうだ。

芸術は秩序と反発するけど、秩序の庇護がないと生き残れない。

この矛盾はなんなんだろう。

大体モーツァルトが宮廷音楽家になってからその作品の質が落ちただろうか?

ゴヤは5人の王のもとで宮廷画家を務めた。

王が変わるたびにその身を翻し、立場をかえ、策をめぐらせ、権力にしがみついた。

だけど彼の作品には毒々しい牙があふれかえっている。質だって全然落ちていない。



思うに、芸術が反発するのは常識や秩序と言ったものではない。



つまり、芸術はデジタルと相反するのだ。


芸術は人間のアナログな部分に反応するのだ。



アナログの反対語、デジタルとはものすごくざっくり言ってしまうと



この世の森羅万象すべてを0と1だけで説明しようとする試みである。


システムはデジタルだ。

人間がなんのゆらぎもなく仕事を遂行することを前提としている。


でも芸術は0と1だけでは表現できない何かを観客に訴えかける。

その結果としてシステムの崩壊を促したり、アナログなのにデジタルな生活のなかで汲々とした人間に

一瞬の安らぎや心の昂ぶりを与えている。


でも人間は社会的な動物でもある。

システム無しでは生きられないのが人間である。

だからもしかしたら、双子なのかもしれない。


それと、人間は虚構無しでは生きられないとも僕は思う。

季節ごとに落ちる葉っぱに自身の姿を重ねたりすんのも虚構だ。

道行くいたいけな子供に明るい未来を想像することも虚構だ。

死者の安息を願って地面に石ころを突き立てるのも虚構だ。


舞台上の演者に自分を重ねるのも虚構だ。絵の中に思い出を見るのも、見たこともない作者の息遣いを想像するのも虚構だ。美しい旋律の調べに小鳥のさえずりを想起するのも虚構だ。

そしてそれらすべて虚構には「言葉」が不可欠だ。

言葉が生まれたからうそが生まれた。



芸術には言葉が不可欠なのではないかと最近思う。

芸術の根底には言葉がある。

2011-09-11

最近

なんとなく更新していなかった。

一度途切れてしまうとかなり遠ざかってしまうもので、

これは習い事とかそういうのとも一緒だと思う。

書くと言うこと、

パソコンの前に座ること。外に向けて何かを発信すること。

そこに付きまとう「羞恥」がここ最近かなり高じている。

だから多分更新しなかったんだろう。




いったいなんで、自分の考えていることを、わざわざ、言葉に変換して

そしてブログに書いたりするのだろう。



うーん、違うな。

そういう紋切り型の部分に僕は羞恥を感じているわけじゃないな。



価値だ。

この、文章の、価値が問題なんだ。

自分の内面うんぬんじゃないな。

対外的な価値、このブログの価値が良くわからないからちょっと戸惑っているんだ。

自分でこれは価値があるって思えたらいいジャンなんてことはありえない。

自分ひとりしか見ないような日記でない限りはそんなことはありえない。

発信していると言うことはどんなに巧妙に隠そうとそこには自己顕示欲と自尊心がある。

いくら言葉でうめたって無理だ。

「無心で書きました」なんていうのは嘘だ。

たにんが認めないと、読まれないと絶対に成立しない。

文章はシュレディンガーの猫か。

何を言ってる。

すると

誰もよんでいなければ僕は何もかかないのか。

うーん、それも違うな。

極端な論理はだめだな。

偽悪だな。いや、そんな格好いいもんじゃないか。単なる見栄だ。



うーん、、なんか書こうか。